2016年(平成28年2月) 10号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

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青森県八戸市城下(取材地・千葉県館山市)川代養蜂場

面布掛けないで内検すると うちの蜂には殺されるよ

館山の蜂は気性の荒い蜂だった。川代俊美(かわだい としみ)さん(83)が、この春初めての内検をし、不足している餌を与えている間にも、傍らの私を執拗に狙ってくる一匹の蜂がいた。昼前、休憩しようと、巣箱から7、8メートル離れて面布を取った途端、私の顔を目掛けて飛び込み、唇の左上を一瞬で刺した。唇の上に蜂が残した毒袋を、川代さんがすぐに取り除いてくれたが、翌朝には、左頬が腫れて、まるでこぶとり爺さんの形相だ。

日射しは暖かいが春嵐ともいえる南からの強い風の吹く日だった。気温は上がらず巣箱に吹き付ける強風の音が、蜜蜂たちを不安に陥れていたのかも知れない。内検をする川代さんの背中にしがみつくように止まっている数匹の蜜蜂の姿を見て、気性が荒いということは、人懐っこい感情の裏返しなのかなと思っていた。

|「腐蛆病(ふそびょう・蜜蜂の法定伝染病)を防ぐための視察があった時、『蜂の扱いが荒いから、蜂が荒れるんだ』と、言われたもの。面布掛けないで内検する人もいるけど、そんなことしたら、うちの蜂には殺されるよ」と、川代さん自らが認める気性の荒い蜂たちなのだ。

川代さんが言うには、人懐っこくて、しがみついているのではなく、寒さで飛べなくなって川代さんの体温を求めて止まっているのだそうだ。

確かに、巣門の辺りを見ると、内検で巣箱の蓋を開けた時、一斉に飛び出した蜜蜂たちが、寒さのために巣箱まで帰ってこられないで、数匹の蜂が巣門手前の草むらの中で蜂団子の状態になっていた。互いの体温で温め合っているのだ。寒くて、体が動かず、残りわずか数十センチの距離さえ帰れなくなっているようだ。このまま凍えて死んでしまう可能性もある過酷さである。

|「ほんとは、半冬眠のまま巣箱の中に居て欲しいんだけど。ちょっと暖かいと、水を飲んだり糞をしたりするため、巣箱から出て行くから、寒くて帰って来られなくなって、蜂の数が減ってしまうんだよね」

強風で仕事を早く切り上げた午後、美味しそうにお茶を飲む

 

養蜂場の仕事始めは燻煙器の準備だ

越冬した蜜蜂。餌の残り具合を見る

巣箱一杯の巣板は元気な蜂だ。砂糖水を補給する

草むら辺に降りて這って行くですよ、ハァハァって腹膨らませて

今、館山にいる川代養蜂場の蜜蜂たちの本拠地は、青森県八戸市だ。蜜蜂に冬を越させるため、温暖な房総半島の千葉県館山市で昨年12月初めから転飼し、越冬した蜜蜂の状態を2月上旬に内検する。蜜蜂が冬の間に食べてしまった食料(花粉や蜂蜜)を補給するため、人工の花粉や砂糖水を与えるのが、この日、川代さんが行っている作業だ。

|「館山の宿はね、(ここに来るようになって)もう50年以上になんだ。その当時は、(2月上旬に)油を採るための菜の花がたくさんあったから、餌を補給する必要はなかったけど、近ごろは食用に菜の花を栽培するようになって、蕾の状態で採ってしまうんでね。もうほんとに花粉がなくなったの。それで砂糖水だけやっても、花粉をやらないと蜂に精が付かないね」

川代さんは、巣板を留めている釘を抜きながら巣箱の状態を点検していく。八戸市から館山市に移動する際、輸送途中でのトラブルを防ぐために打った釘だ。

「今年は暖かかったせいだか、いつもより餌を食べてるね。餌食べてる分だけ蜂が増えてればいいんだけど。去年12月に見てから、まだ一回も面会してないのよ。その間に寿命で死んでしまった蜂もいるから、それを取り除いてから餌やるの」

川代さんは、巣箱の蓋を跳ね上げ投げ落とすように開け、ドンドンと巣板を巣箱に打ち付けて蜂を払う。川代さんの作業は、確かに少々荒っぽく見える。巣箱の中の蜂たちは、音に驚いてビクビクしているのかも知れない。しかし、これは川代さんのやり方であって、蜂への愛情はたっぷりなのだ。

|「刺されるのはいやだ。でも、蜂が蜜を運んでる時は、ほんとに可愛い。この歳になっても蜂屋やってるのも、そこにある。お天気が良くて花がいっぱいの時、蜂が蜜をいっぱい腹に溜めて巣箱の入口近くまで来ているのに、重くて巣門まで飛びきれねえんですよ。手前の草むら辺に降りて這って行くですよ。ハァハァって腹膨らませて。それ見ると、ほんとに可愛い。そうなるとね、面布も要らないくらい温和しい。蜂が働くのに夢中になってて。今日みたいな寒くて風の強い時は特に荒いよ。みんなやくざ者になってるから」

 

リックサック背負った2人組で、一斗缶で蜂蜜を買って行く人が来たんですよ

昼近くなっても、南の風が強く気温は上がらない。強風で巣箱の蓋が飛ばされそうな状態なので、午前中で作業を切り上げて宿に帰り、川代さんの一代記を聞かせてもらうことになった。

 

|「親父が酒飲まない人だったでしょう。ものすごい甘いのが好きだったんですよ。それで、蜂2箱買って来たんだって。同じ集落の人3人で、倉石村(現・五戸町)から買ってきたような話でした。川代養蜂場は、そっから始まったんだって。でも百姓してる傍らだから、田植えの頃ね、ちょうど蜂が分封するんですよ。親父が田んぼに行ってるでしょ。その間に分封すると逃げられてしまうわけ。だから、私に『蜂見てなさい』って。分封が出たら、『田んぼへ教えに来い』って。そうすると『小遣いあげるから』って。私の集落は、店も何もないし、お小遣いの使い方も分かんなかったんだろうけれども、(お小遣いを)貰うのが楽しみで、早く分封すれば良いなって(巣箱の)入口を眺めておったですよ。やっぱり分封ってしますよ、するする」

|「うちは、農家で大きい茅葺き屋根の家でしょ。縁側がかなり広いですよ。そこへ巣箱を置いてワラで囲って、冬を越してたね。最初の頃は2、30箱だったと思うよ。結局、甘いの好きだから熱心になって、増やしたんでねえかな。戦争が始まってからだったけど、リックサック背負った2人組で、一斗缶で蜂蜜を買って行く人が来たんですよ。その人たちが来た時にね、ニワトリを1羽買って、庭で七輪で焼いて食べたの記憶にある。こっちが煮干しも食べられねえような時、ニワトリ丸ごと焼いて食べたです。その時、ご馳走になったニワトリの味、今でも覚えてるよ。私、まだ、小学校に入るか入らないかの頃だもの」

|「歳の離れた長男は兵隊だったでしょ。だから私、6年生からね、百姓やらされていたの。田んぼ耕すのは馬の背中に乗っけてもらってよ。歩いては、馬に付いて歩けないから。夕方になって隣の馬が帰ると、うちの馬も帰る気になって逃げるんですよ。そうすっと、私、子どもだから止められないでしょ。だから、もう調教したような馬買って貰って。だからね、私、犬と同じくらい馬が可愛いの。学校出てからだけど馬引きもしたの、荷馬車引き。馬は主人がどんな合図を出すか、しょっちゅう耳で聞いてるんですよ。耳を後ろへ向けた時には、近付かない方が良いね。必ず噛みつくから。動物に接してこないと、その習性は分かんない。馬に荷物引かせて上り坂、ほんと頑張って汗流すでしょ。そうすっと、ろくなおかず無いんだけどもね、弁当の半分も食べさせてやるよ。ほんとに可愛くて。うちへ帰ったら、すぐ体をワラで拭いてやる。汗びっしょりだもの。だからやっぱり動物も好きになるし、愛情注げば馬もほんとに話し掛けてくるんですよ。鼻から息出すように、ホッホッホッホッって、何か頂戴みたいに」

 

5年間蜂を手伝えば、

百姓やるための耕地を買ってやるって

|「戦時中は、百姓では金にならなかったって、いくら働いても借金の利子分より働けなかったって。町の大きな商店から肥料代だか何だか借りてくるの。そうすると、一年働いても、その利子分だけで、元金が毎年残ったって。だからね、戦争に負けなきゃ、百姓成り立たなかったって言うよ、うちの親たち。そんで、ほら、蜂蜜いくらで売ったか分からないけど、売った味を覚えてて、親父は蜂屋になりたいと思ったんだろうけれども、もう、戦時中は、ほら、農家でしょ。だから、長男が復員して帰ってきたら、(長男に田畑を任せて自分は)蜂屋になろうという気だったらしいの」

|「最初に、採蜜で他所へ行った時にも、5、60箱しかなくて、自分が蜂屋だって、恥ずかしく言えなかったって。知ってる蜂屋の貨車に一緒に積んでもらって歩いたらしい。貨車一両分の蜂を持たなかったから。そうして歩いたって」

|「私は、採蜜の時は親父を手伝って、あとは百姓の兄貴を手伝うだから。例えば、蜜採りに三沢の方へ親父が行くですよ。そうすっと、今みたいに電話もないから『明日、蜜採るから来い』って電報が来るんですよ。そうすっと、夕方まで兄貴を手伝って、バイク乗って行くの。脚がやっと届く500ccのバイク、無免許で。それでも乗って行くの面白くてね」

|「その頃ね、手伝ってても、ほんとは蜂好きでねかったの。刺されて痛えもんだから。それと、採蜜って朝早いでしょ。今と違って花が無制限にあったもんだから、雨降らない限り毎日のようにやらされたの」

 

内検を終えて次の巣箱へ移動する川代さん

強風のため巣箱の蓋が飛ばされないように釘を打つ

巣箱から出たが寒さで飛べず蜂団子になって温め合う

そこの集落の人と一体になれるんです

それ私、好きだ

|「そっで、あの……、家出。親父は蜂をやらせたいけど、こっちは好きでねえから、職人になるつもりで、親戚が青森市で左官屋やってたの。そしたら、どっから聞いたかね、親父が青森まで迎えに来たの。蜂手伝えって。正直な話ね、終戦後ね、何をやりたいってこともなかったしさ、別に今後の人生とか何とか考えたこともなかったの。その日、食べさせてもらってれば良かった。大工でも左官でも、何でも良かったんだけど、職人になるには、5年ぐらいは手伝わなきゃならないらしいの。それで、5年間蜂を手伝えば、百姓やるための耕地を買ってやるって、親父に言われたですよ。実家では兄貴が百姓継いでるから、私は他所でやるしかないからね。別に、それ欲しいとかなかったの、でも、そこまで一生懸命言ってくれて、親父が朝早くから夜遅くまで働いてるの見てるから、じゃ手伝おうかなって思って。ほんだから、俺の蜂、親父の蜂だっていうのはねえの。給料は出ねぇで、金は使い放題。金が無くなったら小遣いくれんの。そういう生活だから、何時になっても一人前になんねえの、私」

|「27歳の時かな、お母ちゃん(妻)を貰って、(巣箱)100箱(の蜂を)貰ったんですよ。これで、あんた生活していけってね。足らなかった。その年に(蜂蜜を)300缶採ったね、100箱で。当時は、花がいっぱいあったからな、菜種とか何か。だんだん菜の花がなくなって。最初の年は良かったけど、あとは足らなかったね」

|「やっぱり蜜採る時とか、新しい女王ができた時は楽しいね。それと、何より、山下清でねえけど放浪癖というか、歩くのが好きだ。観光とは違うでしょ。その場所に約一か月ずつ。例えば、茨城行っても、青森行っても、秋田行っても、そこの集落の人と一体になれるんです。それ私、好きだ」

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