2016年(平成28年8月) 14号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

〒880-0804 宮崎県宮崎市宮田町10-22-203

ヘリコプターの羽のようなのが春先に出てきて

それから花が咲きますわ

 長閑な採蜜だ。自宅近くの小川を越えて林道を入った所にある日進九線蜂場で、遠心分離器を荷台に載せたままの軽トラックを蜂場入口に停め、ゆっくりと採蜜作業が始まった。

 「これが赤シナの樹ですわ。晩生ですね。まだ、蕾ですわ。あと一週間くらいで咲きますね。それから一週間で採蜜できるようになりますけど、それまでは青シナ(大葉ボダイジュ)を採蜜できますから、ちょうどサイクルがええですね。ヘリコプターの羽のようなのが春先に出てきて、それから花が咲きますわ。シナの花が今年は良く付いてますね」

 巣枠に群がる蜂を払う手を休め、蜂場横の大きな赤シナの樹を指差しながら、坂東忠則(ばんどう ただのり)さん(66)が教えてくれる。

 「向こうの山に見える大きな樹は青シナですね。黄色っぽくモコモコとしているのは、花が咲いとるんですわ。こっちの樹はシコロ(キハダ)なんで、6月の中旬ぐらいから線香花火を散らしたような花が咲きます。昨日も別の蜂場で蜜採りしたんですけど、シコロがだいぶ混じってましたね」

 養蜂家は、蜂の生態に詳しいだけではやっていけない。蜜源となる樹木の植生に詳しく、季節ごとの変化にも敏感でなければならないのだ。

 

一番通り蜂場で蜂蜜の入り具合を点検する忠則さん

一番通り蜂場で採蜜する。2段の巣箱が採蜜群(画面左側)

木漏れ日の中で一番通り蜂場の採蜜をする

遠心分離器で絞った蜂蜜を漉し器に移す悠貴さん

音を立てて蜂が巣枠から流れ落ちていく

巣箱から取り出した巣枠の天木(てんぼく)を持って、忠則さんが揺さぶるようにバッバッバッと押し下げると、ザザザザーッと音を立てて蜂が巣枠から流れ落ちていく。巣枠には見事に蜂が居なくなっていた。

 「忠則さんの蜂払いは見事ですよ」と、坂東一誠(ばんどう かずなり)さん(13号参照)から聞いてはいたが、聞きしに勝る見事さである。

どの継ぎ箱も蜂児の数を平均化する

 忠則さんが蜂を払っても巣枠にしがみついている数匹の蜂を、長男の真志(まさし)さん(38)が蜂ブラシで払い、一つの巣箱に入っている巣枠9枚ごとに遠心分離器まで運ぶ。蜜蓋を切る係は長女の悠貴(ゆうき)さん(36)で、巣枠を遠心分離器にセットするのは忠則さんの甥、崎山智紀(さきやま ともき)さん(37)である。採蜜作業に長閑な雰囲気が漂うのは、若い働き盛りの労働力で余裕があるからなのか、忠則さんの人柄なのか。

 坂東養蜂場の採蜜作業は、採蜜を終えた継ぎ箱(上の段の巣箱で底がない)の最初の5箱はすぐに元の巣箱に戻さないで、6番目の継ぎ箱の採蜜を終えてから最初の巣箱に返していく。雄蜂の巣蓋を切り、膨らんだ蜜房の形を整えた後、蜂児の数がどの継ぎ箱も同じになるよう巣枠を入れ替えてから、継ぎ箱を順に戻していくのだ。この作業を担当しているのが真志さんである。

 「この方法が作業全体の効率が良いのと、蜂児の数がどの継ぎ箱も平均化する良さがあります。巣枠を同じ継ぎ箱に戻していると、弱群はいつまでも弱群のままになってしまいますから」

 匂いに敏感な蜜蜂が荒れないように、巣枠は元の継ぎ箱に返すのが一般的であるが、こう説明を受けると納得の戦略である。蜂場全体で蜜蜂の勢力が平均化することで、蜜蜂の採蜜能力も高い水準で維持でき、作業効率も良くなるのかも知れない。

蜂ブラシで蜜蜂を払う真志さん

遠心分離器を回し巣枠から蜂蜜を絞る

採蜜の途中、忠則さんが巣箱に腰掛けて一休み

怖いのはオオスズメバチと熊

 午前8時から始めた日進九線蜂場の24箱の採蜜作業は、10時前に終了した。

 採蜜を終えてから巣箱を点検していた忠則さんが、小石を巣箱の上に一つ載せた。

 「古い女王蜂が居なくて未交尾の女王蜂が居たので、その印ですね。この花の時期に交尾して一人前の女王蜂になると思います」

 採蜜をする巣箱の周りにオオスズメバチが羽音を立てて寄って来ている。オオスズメバチは肉食なので蜜は盗らないが、蜜蜂を捕らえて砕き幼虫の餌にするのだ。

 「オオスズメバチの女王蜂が子育ての時期で、三つの巣に子どもを産んで、自分でそれを育てながら巣を大きくしていくんですね。三つの巣が六つになり、十二になるように巣を大きくしていって、大きな集団になったら襲って来るんです。お盆頃になると、蜜蜂を攻撃して殺して楽しむようなことをするんです。蜜蜂は群れを守ろうとして蜂団子になってオオスズメバチを包み込んで熱で殺すんですけど、北海道で怖いのはオオスズメバチと熊、一番は熊かな。ここ何年も自分とこは被害はないんですけどね」

蜂蜜の付いたシートを洗う悠貴さんと息子の軍司ちゃん

坂東養蜂場のアイドル軍司ちゃん

この夏は、クワガタ300匹ほど捕ったな

 採蜜の道具を片付けて帰る途中、「ちょっと寄り道して帰りますけど」と、忠則さんが声を掛けた。林道を少し走ると、大きなドングリの樹の下に軽トラックを停め、幹の周りを見回して崎山さんが幹を蹴飛ばすと、ミヤマクワガタがボトボトと落ちてきた。幹の所々にはクワガタの餌になるゼリーが仕掛けてあり、容器の中にミヤマクワガタが逆さになって入っている。10分ほどで7、8匹のクワガタを捕った。どうやら崎山さんの副収入になるらしい。

 「この夏は、クワガタ300匹ほど捕ったな。雌を残しているのも影響しているやろし、今年は全体に暖かったからかな。蜜も今年は良いみたいやから、自然界は連動しているということやな」と、崎山さんは上機嫌だ。

ジェット洗浄機で遠心分離器を洗う忠則さん

佐藤春夫の小説「雁の旅」のモデルとなった初代周一

 忠則さんは、3代目の養蜂家である。明治27(1894)年生まれの初代坂東周一(ばんどう しゅういち)さんが養蜂家となる経緯は、周一さんをモデルにした佐藤春夫の短編小説「雁の旅」に詳しい。出水清(しみず きよし)という養蜂家が主人公である。小説なので事実と異なるところがあるかも知れないが興味深い話なので、職が定まっていない清が妻と生まれたばかりの長男を連れて、母の寄宿する十勝の白象寺を訪れた所から引用する。

 女房は母とよく折り合える見込も立つたし子供が可愛がられる人が多いだけでもいいと同意を示したので、親子三人当分この白象寺へ落ち着くことになった。

 (そこへ紀州の養蜂家畑中氏が、荷馬車に三百の巣箱を積んで来て、境内に巣箱を設置しようとしている。その様子を見ていた和尚(方丈)が、同じく見物をしていた清に声を掛ける。)

 「お前気の向いた間だけ手伝って上げたらどうだな」

 わけのない仕事らしいので清も気軽るに引き受けると荷車の片隅にあった廂から網の垂れている麦わら帽子とメリヤスの手袋とを与へられて、畑中さんのしてゐるとほりに身装へが出来たから、畑中さんの指図どほりに、大よそ一坪に二つぐらゐの見当で庭つづきの白樺の林の裾に並べるのであつた。

 (これが縁となり、養蜂家畑中氏の仕事を手伝いに紀州まで行くことになる。およそ一年間、畑中氏の養蜂を手伝い、紀州の花が終わる頃、旅費と小遣いを十分に支給された清は、二百箱の巣箱を持って先に北海道十勝へ行くように頼まれる。経験の浅い自分に二百箱の蜂の世話ができるのかと不安を抱きながらも汽車に積み込み、妻子の待つ十勝へ急いだ。その後、白象寺方丈の計らいで養蜂家として自立できるように仕向けてきたと、畑中氏から聞かされた清が、お礼に行こうとしたところに方丈がやって来る。)

 方丈は上機嫌で仮小屋の椅子代りの石油箱に腰を下して、

 「お礼に及ぶ事かお前はこの上なしの職業を選んだのう。釈迦如来も僧侶の乞食生活は蜂が花から蜜を得るに倣ひ花に利益を残して害を与へぬ如く施与者を益して自ら生活せよと教へられてあります。お前は豆作りの農家を益し蜂を繁殖させて自分でも益を得られる一挙三得とも言はう。お前の売る蜜は病人に再生の元気を与へるぞ。この自覚を以て業に励むのだ」

自宅庭で忠則さん。「大きくなったら蜂屋と言われて育った」

トランペット吹いてたり、テニス、将棋、麻雀はしてたけど

採蜜はしなかった

 周一さんの年表によると、12歳で東洋映画巡業音楽部員となり、20歳の時に蜜蜂一群を購入し、転飼のため北海道を訪れていた和歌山県の養蜂家田中亀三郎氏とたまたま出会い、養蜂についてつぶさに実習するとある。100群を飼育し養蜂業としての経営を始めたのが翌年、大正4(1915)年で21歳の時だ。「雁の旅」に登場する紀州の養蜂家畑中氏は田中亀三郎氏なのだろう。十勝の白象寺に寄宿する母の元へ連れて行った長男が忠則さんの父、二代目の忠男さんのことなのだろう。

 祖父周一さんの思い出は、忠則さんにも鮮明だ。

 「牛乳に蜂蜜入れて飲んでましたね。100歳記念ゲートボール大会を開催してもらったりして、104歳になってもゲートボールに行ってましたよ。106歳まで生きて入院して2週間で亡くなりました」

 「88歳で亡くなりました曾祖母のナカさんは、独りで採蜜してたと聞いていたでね。周一爺さんは、楽団に入ってトランペット吹いてたり、テニス、将棋、麻雀などはしてたけど、採蜜はしなかったようですね」

 佐藤春夫は「雁の旅」の中で、養蜂家を自然と自由を愛する風流な生き方と好意的に描いている。周一さんは、まさにその様に生きたのだ。77歳の時には、多年養蜂界に尽くした功績により黄綬褒章を授与されている。

 「蜂屋では一番先に(黄綬褒章を)貰ったんかな。祖父と両親は蜜採りだからシナの花が終わってから十勝の方へ移動したんですけどね。久し振りだと1日か2日は、親に会うのが恥ずかしかったですわ。私は、中学卒業するまでは十勝の祖母に預けられて、子どもの時分は十勝で育ったんです。山の方へ行って桑の実を食べよりましたわ。十勝は1メートルぐらい土が凍ってしまいますからね。隙間から雪が入ってくるような家だったんで、子ども時分は頭から布団被って寝るのがクセになってました。『お前は大きくなったら蜂屋』と言われて育ったから蜂屋しか選択肢がなかったですね」

 忠則さんは、養蜂家になるべくしてなった。長男の真志さんも養蜂家になるべくして18歳から忠則さんと一緒に働き始め、すでに20年。実質的にはもう4代目に入っているのだ。

 

青シナの樹を見上げて蜜蜂を確認する忠則さんと貴美子さん夫妻

青シナの樹を案内してくれた忠則さん

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