2016年(平成28年12月) 18号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

〒880-0804 宮崎県宮崎市宮田町10-22-203

自分たちの蜂蜜には価値があるんだよ

 緩やかな北向き斜面の雲仙市吾妻町本村名(もとむらみょう)の集落は古い歴史を感じさせ、石垣に囲まれた民家が小径で繋がっている。小径の角には、青地に白く釼柄神社(けんぺいじんじゃ)と染め抜いた幟がはためき、秋の例祭が近々開催されることを予告している。集落内を下る小径の先に穏やかな諫早湾がわずかに見えている。

 「今からは湿度と温度を管理できる設備を作ってですね、自分の家で蜂蜜を絞って出していく。自分たちは、そういう仕事をしていこうと思ってます。親の代には、蜂蜜をただ採れば良いというだけから、自分たちの蜂蜜には価値があるんだよという風にですね。ハサップ(HACCP)という仕組みを作って、蜂蜜を採っていこうというのが自分たちの考えです。ハサップって、菌を増やさないためにどういう努力をするか、どこで食い止めるかということを作業日誌にするみたいなもんなんですよ」

雲仙市吾妻町本村名集落の中にある(株)吉本養蜂場

蜜蜂からずれない仕事をすれば、それで良い

 昭和3年創業の吉本養蜂場の3代目、株式会社としては初代の代表取締役である吉本幸一(よしもと こういち)さん(36)は、私と会うなり自らが目指す理想の養蜂業の姿を一気に語り始めた。

 「蜜蜂という生命を核にした1つのサイクルを作り上げ、蜂蜜という商品を生み出していくシステムを目指しているんですよ。自然の中で、ほんとに限られた自然の中で蜂蜜を採るというのは、2か月で決まるんですよ。その後、どうやって繫いでいくかというと、だいたいの人は他の仕事をするんですね。私は絶対ここで食べられる養蜂があると思ったんです。それはどういうことか。蜂蜜を採る量が、その2か月間でみんなが採る2倍じゃだめで、4倍5倍採らんとだめ。そういう仕事をすると、北海道へ行く必要がないと思って。圧倒的な量を採れば、人の寄り方が半端ないです。それだけ人数が来るということは、色んな需要があるということですから、何でもやってみるんです。ただ、自分に1つ言えるのは、蜜蜂からずれない仕事をすれば、それで良いと思ってるんです。あくまで自分たちは職人なんで、蜂を扱ってなんぼなんですよ。北海道で良い機械使って採られても、自分は自分。絶対負けないぞって自信があります」

 相づちを打つ間もないほど一気に話し終えると、急に声の調子が変わり「趣味は盆栽ですね。あのマキノキなんか内閣総理大臣賞に入ったですけんね。好きなんですよ盆栽」と、36歳にしては地味な趣味だ。幸一さんは自宅庭に並べられた山川五葉松の盆栽を愛で始めた。

趣味の盆栽「山川五葉松」を愛でる幸一さん

蜂が弱る所に貸したくない

スタッフの朝礼

 私が吉本養蜂場を訪ねたのは、10月中旬。島原半島の反対側にある長崎県南島原市加津佐町のイチゴ農家へ交配用蜜蜂の配達に行くのに同行した。蜜蜂が巣箱に戻った夕方5時過ぎに出発し約1時間、巣箱2個を積んで今季最初の配達だ。

 「うちは蜂の点検を2回。多して(多い時は)3回行きます。基本的に蜂が弱る所に貸したくないですよね。しかし、需要と供給を考えるとね、やっぱ今から伸びる産業でもありますし、手放すにはちょっと惜しいて思います。もう、そこは自分としては好きじゃないけど、経営のためと(割り切って)取っていくしかないかなと思ってます」

 「例えば、イチゴに貸し出した蜜蜂が飛ばないって言われたら、他の所は1日か2日待ってください、後でしますよっていう商売をするんですよ。私たちは違います。どうしてかっていうと、昔から(同業者が)貸し出しているところに自分たちが新しく参入する訳ですけん、サービスが良くないといけんですけん。だからお客さんを待たせません。人気商売ですんで。価格を下げるより、サービスですけん。私たちは割り込んで大きくなったところがあるんで、より良いサービス、より良い競争ということで」

 幸一さんは、軽トラックを加津佐町へ向けて運転しながらも、自らが目指す養蜂業についての話は止まらない。

蜂より早く逃げて行ってました

 今では社長業として理想の養蜂業の姿に燃える幸一さんだが、高校を卒業した後、しばらく両親の養蜂を手伝っていた時期がある。「その時は、給料でなくて、携帯電話の費用と小遣いぐらいで良いっていう感じで、でも、それじゃ今の時代は無理なんですよ。弟子に行っても最低10万円くらい(の給料)はありますよね。そうやって親と理解できんで、別々に仕事をし出した訳ですね」と、幸一さんは言うが、母親の純子(じゅんこ)さん(63)に当時の様子を聞くと少々ニュアンスが異なる。

 「中学からずっと柔道をしてたもんですから、高校も柔道の推薦で県立に入って、柔道は一所懸命やってました。高校を卒業して息子が家に居っても、しょみつかん(身が入らない)もんですから、仕事がですね。こりゃ困ったなあと思ってですね。昼はグウグウ寝る。夜は目が輝いて……、狸と一緒ですよ。『そんな生活しょったっちゃあんたどがんなんね(どうなるね)』ってですね。たまに蜂を手伝っても若いもんだから、蜂を雑に扱うんですよね。そうすれば蜂は向かって来るじゃないですか。刺されれば痛か。蜂より早く逃げて行ってました。それだからですね、こりゃ蜂をしたっちゃしょみつかんよってですね」

 悶々とした目標の見えない時を過ごしていた幸一さんが、養蜂業に目覚めるきっかけとなったのは、雑誌に掲載されていた福岡県八女市の青木養蜂場の記事を読んだことだった。

諫早市高来蜂場で、内検の際、女王蜂の存在を確認する

諫早市高来蜂場で、働き蜂が女王蜂を囲むように寄り添う

諫早市小長井蜂場で、内検を終えた巣箱に移動用の紐を掛ける幸一さん

諫早市高来蜂場で、巣箱の前に取り付けたスズメバチの捕獲器

以前は、海苔の乾燥小屋として使っていた蜂蜜商品の販売店

幸一さんの強烈な個性が伝わる従業員の休憩室

本村名の蜂場で、夕方、蜜蜂が巣に戻ってから貸出用の巣箱を積み込む

この日の仕事を終えて帰宅する幸一さん

他人から言われたら浸透し易いんですよ

 「ここの会社すげえなぁと思って、そこに飛び込みで行って。そりゃ最初雇ってくれませんよ。2回ぐらい行きますよね。行って駄目やったけんが、次は手紙を書きましたよ。そしたら会ってみようと言われて、なんでそぎゃん、わざわざ来んでも大丈夫やろ、色々言われましたけど、ま、小っちゃい時から手伝っていたんで知識はあったんですけど、そこの会長さんから経営ってことを学ばせてもらって。そこで習ったのが「巣蜜」ですね。それだけじゃなくて、親から言われる言葉をですね、他人から言われたら浸透し易いんですよ。父親の考えることも解るんですけど、父親はどうしても守りにしか感じられなくて。自分にはハングリーがあって、自分はもっとチャレンジしたいと。自分が転けるぐらいの所まで行こうと思って」

秋の例祭の準備を終えた釼柄神社

2度と我が家の敷居を跨ぐなって

 そんな志をフツフツとたぎらせるようになった幸一さんだったが、母親の目から見れば一人前の養蜂家になれるのか、不安の種は尽きなかった。

 「あれが、ほんなこて蜂ばしわゆっとやろか(できるんだろうか)。帰って来っとが関の山じゃろて。我が家おったちゃ蜂より先に逃げて行く男がね、こなせば(強く言えば)蹴ったくって投げ出していくような息子が、こりゃお父さん駄目よって。(養蜂を)せんならばせんで、もうおっどまの代で終えて、そん代わり後は、2度と我が家の敷居を跨ぐなって腹を決めちゃおってみても心配で、息子に隠れて何べん久留米のアパートまで見に行きましたか。今日は時間の早よ終わったけん、こそっと見に行ってみろかと、主人と見に行けば、アパートはまだ引っ越しちゃおらんごとあって、まだ、そんアパートにおるみたい。お世話になっておる青木さん方に顔出しに行けば、『よう働いてくるっとですよ』と言うとが、私にとっては夢みたいな感じでしたよね」

 青木養蜂場で働いたのは、3年間。その後、幸一さんは自宅に帰って養蜂業を始めたが、その頃、父親の幸雄(ゆきお)さんが悪性リンパ腫であることが判明する。

自宅で療養中の父親・幸雄さんを中心に家族写真を撮影した
後で

幸一さんが3代目として吉本養蜂場を継いでくれたと嬉し涙を滲ます母親の純子さん

理想の養蜂業を求め、安心安全の蜂蜜にチャレンジし続ける
幸一さん

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