2019年(平成30年4月) 32号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

〒880-0804 宮崎県宮崎市宮田町8-7赤レンガ館2F

無意識に手が動き草を抜く

 国道501号から分かれてカーブを描くように急坂を上ると、右手に有明海が広がり、その奥に普賢岳を望める高台へ差し掛かる。この辺りは段々畑が連なるみかんの一大産地である。

 熊本県玉名市天水町の大久保養蜂場の事務所兼販売店は、みかん畑の中にあった。

 「普賢岳が爆発した時には、目の前に噴煙が上がっていくのが見えて、火山灰がここまで降ってきたんですよ」

 大久保真弓(おおくぼ まゆみ)さん(53)が、記憶の映像を辿るように1991(平成3)年の普賢岳大噴火の体験を話す。

 事務所兼販売店前の母屋に、現役を引退した初代の大久保秋則(おおくぼ あきのり)さん(84)と妻の文子(ふみこ)さん(83)夫妻が暮らしている。

 秋則さんが、みかんの木に肥料を施すというので細い坂を上り見晴らしの良いみかん畑へ行く。「私ゃ、こればっかりだもん」と、「ラクトバチルス」と袋に書いてある顆粒状の肥料を撒いていた。肥料を撒きながら少し伸びた草があると、秋則さんは手の方が自然と動くかのように引き抜いている。「こまんか草が生えるのを取っとくとですよ、仕事もしやすかですもんね」。秋則さんの体に根付いている百姓魂を感じた。

餌の異性化糖にオーガニック系の栄養補助食品を加える

蜜蓋のできた巣板を勢いの弱い巣箱に入れる

3月上旬、寒風を巣箱に入れないため巣門を半分塞ぐ

景気の良い始まりの時にやられた

 翌日は雨だった。母屋の座敷で炬燵に入って蜜蜂を飼い始めた経緯を秋則さんに聞いた。

 「もう何十年も耳鳴りのすっとがようならんもん。ここら辺でずーっとジージーすっとたい」と、秋則さんが頭の上辺りで右手首をグルグル回す。

 横で痛い膝をさすっていた文子さんが、蜜蜂を飼い始めた頃を思い出したように話し始めた。

 「昭和42(1967)年の旱魃の時じゃなかったかと思うとです。家のみかんの木に下がっとった分封蜂ば、2箱だったか捕ってきたっですよ。それがいっちょん増えんから変と思いよったら、腐蛆病(ふそびょう)に罹っとったっですよ。それで、みんな燃やさないかんけんと言われて……。それから阿蘇へ行って5箱買うてきて始めたっですよ。燃やしてしもたけん、こんだ頑張ってやろうということで始めたっですよ」

 「その前の昭和38(1963)年には水害に遭うちかい、住まいも倉庫もぺっしゃんこになってしもてかい。体一丁になったもんだけん、食べていけんもんだけん。一番のみかんの景気の良い、始まりの時にやられたもんだけん。えらい目に遭うたつばい。そんな具合だけん、土地を買うのはすぐには出来んかったけど、蜂は土地を買うほどのお金は要らんかったもんだけん。ここら辺にみかんの蜜を採りに阿蘇から来よった蜂屋さんが居ったもんだけん。その人たちに色々聞いて、教えてもらってしよったですたい」

 秋則さんが当時を思い出したように一言「上手くいかんとですたい、何でん。一番かい(最初から)何でん知らんと」。

 文子さん「で、その5箱から増していったとです。その当時は、(巣箱を)そこには持って来るな、ここには来るなと言われて、こなされてしもたっです」

生活せないかんけん、やりよったったい

 秋則さん「そりゃ、蜂の飛んでいく距離もあっとですかい(から)。蜂屋さんも仕事を邪魔されちゃならんとやけん。そりゃ勉強になりましたね。何の業種でん、やおいかんというのを知ったですたい。『あんたは良かみかんを作っとるけん』というて、私を応援してくれたみかん問屋が居ったですけん、蜂を増やすことができましたね。やっぱ自分だけの力じゃ、何にもでけんですな。それも俺がみかんの甘かとを作っとったから、応援してくれたと思うとですたい。最初は、少しずつしか採れんけん、家に買いに来てくれた人に売りよったったい。まだ売り方もなあんも知らんかい(から)。やおいかんね、最初は。簡単に採れんけん、こりゃやって良かったと思うことはなかったい。みかんでん蜂蜜でん、そりゃ同じたい。生活せないかんけん、やりよったったい。農業をする若者は居らんようになるし、このままじゃ、この辺は猪の寝床になる」

 養蜂を始めた頃の困難さが、言葉の端々から伝わってくる。水害や旱魃の自然災害による被害の大きさは私の想像を超えたものだったのだろう。何せ、住まいも倉庫も奪われてしまったというのだから、秋則さん夫妻は30歳前後で裸一貫からの再出発だったのだ。

金持っとらんでも飲ませよったもん

 それにしても、養蜂業をしていて良かったと思うことはないのだろうか。

 「毎日、蜜ば食ぶっとに良かったなぁと思ってね。大豆を圧力鍋で軟おう炊いてかい、それに蜂蜜を掛けて、朝昼晩、みゃー日(毎日)食ぶっで。私ゃ酒飲まんけん。甘かが好きやったけん良かった。生活は何ばしたっちゃ一緒。毎日、蜂蜜食べらるっとが良かったなぁと思うしこ(思うだけ)。今になってみれば、田舎が良かったねと思うとたい。終戦後はみかんの景気が良かったけん。小天(おあま)とか河内(かわち)の人間ち言えば、熊本市のクラブで金持っとらんでも飲ませよったもん。俺は酒は飲まんばってん、ああいう雰囲気は好いとったもん。まだ、こん道路(みかん山の頂上に続く農道)がなか時、役場に道路を造って欲しかって陳情に行った時の気持ちを歌にしたったいね。そん歌をクラブで発表したったい。そしたら評判が良うしてよ。一丁、言うちみろかい。

 

 時計のベルに起こされて

 君が誘う寒い朝

 握ったツルハシ若さを燃やす

 ああ、負けないで

 皆、負けるな励まして

 明日の心は太陽だ

「みゃー日(毎日)、ご飯を食べた後、
これを食ぶっとたい」と秋則さん

 曇り一点無か太陽のような気持ちでお願いしているということを歌に表したったいね。『そげん気持ちでわっどんが言うなら、すぐ造れ』って言ってくれて、こん道が出来たったい。それが、この天水町の始まりになったったい」

 得意満面の秋則さんだ。それにしても、半世紀以上も前に作った歌を澱みなく空んじる秋則さんに驚く。84年間の人生の中でも、特に思い出深い得意の一場面だったのだろう。

「みつばち活性くん」に群がる蜜蜂

ポリネーション用蜜蜂の内検に異性化糖のタンクと燻煙器を持って行く

乳酸菌入りの混合飼料「みつばち活性くん」を振り掛けられた蜜蜂

イチゴハウスに貸し出している蜜蜂の内検をするため燻煙器を準備する

養蜂の知識がない農家が巣箱をビニールハウスに密着させてしまうと蜜蜂が弱る要因になる

ポリネーション用蜜蜂の巣箱を内検し、元気な蜂の様子に一俊さんの笑顔がこぼれる

蜂蜜が真っ白なっとるぞ

 しかし、養蜂を始めた当時は、理不尽な事もあったのだと言う。

 「蜂は人間が愛情を掛けたしこ、返してくれるけんね。その点は良かねぇと思いよったですね。体一丁になって、どがんもできず、土地買う金は無かけんでも、蜂なら一丁二丁買うことが出来たっですたい。そん頃、家に蜂蜜を買いに来てくれた人が、蜂蜜が真っ白なっとるぞ、何ば混ぜとっとかと怒ってくっとたい。そん当時は、どうしてこがんなっとか自分でも知らんもんだけん、混ぜたとなってしもてかい、たまがったな。ここら辺はみかん処だけん、みかん蜜は冬にならんば固まらんとですたい。それでも菜種の頃の蜜はすぐ結晶すっとたい。やってみて初めて自分の勉強になっとですたい」

 蜂蜜の主成分の一つであるブドウ糖が多いと結晶化し易く、もう一つの主成分の果糖が多いと結晶化しにくいというような知識が一般化していなかったためのトラブルなのだ。秋則さんは自分の経験からみかん蜜は結晶化しにくく、菜種蜜は結晶し易いと知っていても、その理由を説明することはできなかったようだ。養蜂家の仕事に対する社会の評価が低かった時代の悲劇とも言えるのだ。

 「みゃーにち(毎日)、ご飯を食べた後、これを食ぶっとたい」

 秋則さんが、軟らかく煮て蜂蜜を掛けた大豆を小皿に入れて持ってきた。私に食べてみろと言うのだ。ねっとりとして甘い大豆。噛まなくても押し潰せるほど軟らかく炊いてある。相当甘いが確かに美味しい。

 「今ん若か者は、泥を扱うとが好かんもんだけん。蜂の方が良かっちゃろたい。これの他にも、梅ば蜂蜜に漬けとっとも、毎日、食ぶっとですたい」

 前半のひと言は、ひょっとしたら、無農薬でみかんを栽培しようとして、ほとんどのみかんの木を枯らしてしまった長男の大久保一俊(おおくぼ かずとし)さん(53)に対する複雑な気持ちが混じっているのかも知れない。しかし、一俊さんの父親を見る目は温かい。

 「親父が若か頃に消防団に入っとる時、暖を取るため油を燃やしていたら缶に火が移ったそうですよ。それを親父が丹前で掴んで外に持ち出して難を逃れたそうですが、そがん勇気のある人なんですよ。そん時に顔の右側を大やけどして、今でん痕が残っとりますもんね。昭和の時代には2回も洪水に遭うて沢山の人が亡くなった時、うちん家も流されとっとです。親父も苦労しとっとです。親父が蜂を始めとっとが昭和42年ですけん、私が生まれて間もなくですもんね。そん年は旱魃でみかんができんで、代わる収入はないかというので始めたのが蜂の始まりですもんね。親父が免許証を返納したもんだけん、今は自転車なんですよ。なんせ親父はプロポリスを飲むし、痛か所には付けるですよ。アルツハイマーの診断が出とるけど、普段の暮らしに支障はなかですもんね。仕事人間だけん、マグロと一緒で仕事しとらんばならんとです」

 秋則さんがみかん畑に肥料を撒きに行けば、父親を追い掛けるように軽トラックで肥料を運ぶ一俊さんの姿を見かけた。

ポリネーション用蜜蜂を依頼している森川安男さんは、少し離れた所から一俊さんの
内検作業を興味深く見つめていた

そがん勇気のある人なんですよ

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