2019年(令和元年11月) 37号
発行所:株式会社 山田養蜂場 http://www.3838.com/ 編集:ⓒリトルヘブン編集室
〒880-0804 宮崎県宮崎市宮田町8-7赤レンガ館2F
狩衣蜂場で交配用に貸し出す蜜蜂群の内検をする楢﨑謙竜さん。蜂場の周りを囲むようにセイタカアワダチソウが満開だ
スズメバチの捕獲器も忘れずに運び、交配用蜜蜂の巣箱に取り付けなければならない
内検を終えると餌として砂糖水を与え、花蜜の少ない時期でも活動できる状態にして交配用蜜蜂をイチゴハウスに貸し出す
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空き地に巣箱が10箱ほど
街の規模を急速に拡大している福岡市の都市高速道路を出ると、小高い丘の裾野を回り込んで複雑な地形に入り込んだ。もはや真っ直ぐで平坦な道は、どこにもない。小さな三差路の看板に「草場」の文字と矢印。小高い山の裾野に民家が建ち並ぶ目的の草場集落に到着した。しかし、ナビは更に前へ進めと指示している。道路はどう見ても行き止まりだ。
車を停めて畑で草取りをしている婦人に聞いた。「楢﨑さんのお宅はどこでしょうか」「ああ、謙竜くんのとこは、この上ばい」「この上は、どこから行くとですか」「真っ直ぐ行けば行くっとたい」「道があっとですか」「あっと、あっと」。
行き止まりと思った道は、左に曲がって細くなり、急な上り坂を恐る恐る車を進めると広々とした空き地があり、その端に巣箱が10箱ほど積み上げてあった。
楢﨑養蜂園は草場27戸集落の一番上だ。
「鹿児島で営業の仕事をしていたんですけど、父が腰を痛めて、25歳の時に帰ってきて父を手伝う形で養蜂を始めたんです。その時には蜂に刺されるのが怖くて手袋をして作業をしてたんです。父もアレルギーがあって手袋をしてたもんで違和感はなかったんですが、蜂が荒っぽく仕上がってしまいましたね。先輩の同業者から『蜂を扱う作業は素手でやらんと蜂が荒くなるばい』と言われて、それから素手でやってみると、翌年にはずいぶん蜂が温和しくなってですね。素手だとプロポリスで手が真っ黒になりましたが、それが誇りだと思ってやっていたんですけど、妻から『食品を扱う仕事なのに手が真っ黒でいいと』と言われて気にするようになってですね。今は又、手袋をするようになったんですけどね。今だに迷いはありますね」
3代目となる現在の園主・楢﨑謙竜(ならざき けんりゅう)さん(39)は、イチゴ農家へ交配用として貸し出す蜜蜂の準備に追われていた。謙竜さんが「後ろ」と呼ぶ狩衣(かりぎぬ)蜂場は、周りを取り囲むようにセイタカアワダチソウが満開の花を付けている。
「この蜂場の蜂は、貸し出す蜂が足りなくなったもんですから、昨日、知り合いの業者から買ってきたばかりで、今日は内検で様子を見て、良い状態ならば貸し出しの準備をします。もうイチゴの花が咲き始めとるので貸し出さないかんとです。蜂とだけ向き合っておられる仕事なら、よっぽどいいんですけど、農家との連絡や巣箱を置いてもらうハウスの状態も様々ですから。でも、交配用に蜂を貸し出すお陰で収入が安定していて有り難いです。採蜜だけだと年によって採れる採れんがありますからね」
素手か手袋か今だに迷う
内検の間にも交配用蜜蜂の配達を依頼する
電話が入る
トラックに道具を積み込んで蜂場へ出発する
蜜蜂の配達依頼の電話が長くなると捕獲器を取り付ける作業も同時進行だ
スズメバチに狙われていた元岡蜂場から巣箱を運び出す
巣門から入ってくる蜂とは喧嘩しない
謙竜さんが巣箱の一つ一つを丁寧に内検する。女王蜂は卵を産んでいるか、蜜蜂は元気に蜜を溜めているか、花粉はあるか等、巣房の中の状態を確認するのは当然なのだが、巣箱の蓋を開けた瞬間の蜜蜂の様子も含め、蜜蜂群の雰囲気を確認するのだという。初秋のこの時期の蜜は、人間のためではなく全て蜜蜂たちの餌になる蜜だ。野の花が少なくなっているため、ほとんどの群は餌が足りていない。謙竜さんは餌箱に砂糖水を入れてやっている。
「祖父が『一生勉強やけん』とよく言ってましたけど、その時は経験を積めというようなことだと理解してました。気候の変動や花の咲き具合で蜜蜂が同じ状態であることはなくて、長年やっていた祖父も年毎に新たな怖い思いをしていたんだと、今になって分かりますね」
交配用に貸し出す巣箱に入れる蜜蜂群の巣板を3枚にするか4枚にするか。謙竜さんは迷っているのだった。
「どの巣板も蜂児を産んどったけん、1枚だけ(給餌箱の)外側に出して3枚にしとったら育ちきらんし、4枚にすれば蜂の密度が薄くなって巣箱の中の温度が下がってしまうかも知れんし……」
外気温がどう変化するかと予想し、巣板の状態を考慮して巣板の枚数を判断しなければならないのだ。
謙竜さんが蜂数が多い群から巣板一枚を抜き取って、蜂数の少ない群の巣門の前で蜂を払った。異なる群の蜂を巣門の前で払って大丈夫なのだろうか。
「巣門の前から入ってくる蜂とはあまり喧嘩しないかなと思っているのと、少ない蜂とは喧嘩しないので、払ってやるだけで少ない群に残ってくれたらいいなという感じですね。でも、大方は元の巣箱に戻ってきますけどね」
貸し出すには蜂数が少な過ぎる群を何とか無くそうとして微妙な調整をしているのだ。
気付いたら、謙竜さんは午後の休憩時間の後は素手で作業をしている。
「刺されるのは蜂のせいじゃなく、天気の悪い時に蜂を扱ったりしている自分のせいなんだから、蜂に合わせんといかんと思うようになりましたね。今日は天気も良いし素手でいいじゃなかな」
花粉を脚に付けて戻ってきた蜂が巣門の前に捨てられた
ムダ巣で休む
捕獲器に捕らえられて死んだ多数のオオスズメバチ
ダニ駆除剤を塗布したプラスチックの板を巣板の間に
差し込む
大事なことはイチゴの実が生ること
秋の陽はつるべ落としとは、よく言ったものだ。夕暮れまでにはまだ時間があるのに陽は傾き仕事の手を急かせてくる。採蜜をしないため薬剤の残留を心配しなくても良い季節は、ダニの駆除剤を入れておかなければ生まれたばかりの蜂児にダニが付いてしまう。養蜂家にとって、蜜蜂を守るためのダニ対策は伝染病対策と同じくらい大切な作業だ。新しいダニ駆除剤を古くなったものと差し替えている。
「耐性のあるダニが出てくると薬剤が効かなくなるので、成分の違うダニ剤を交互に入れ替えるローテーションで薬剤を使っています」
できるだけ薬剤を使いたくないのは養蜂家の共通した願いなのだが、全滅の危機と隣り合わせだ。ダニ駆除剤をどう使うかも、養蜂技術の一つになっている。交配用蜜蜂の貸し出しが最盛期を迎えている謙竜さんには、他にも悩みがありそうだ。
「何年か前には、イチゴ屋さんが分かってくれんと悩んでいた時があって、もうイチゴ屋さんに貸し出すのは止めたいと思うようになっていた時期もあったのです。でも、交配用蜜蜂を貸し出す仕事の一番大事なことはイチゴの実が生ることですけんね。それを第一にして、その上で蜂を大事にしてもらおうと考えるように変わって、とても楽になりましたね。自分の捉え方が変われば、全て良い方向に行くことを学びました。やっぱり養蜂家と農家はウィンウィンじゃないとですね」
イチゴ農家としてはできるだけ多くの蜜蜂がイチゴハウスの中を飛び交う状態を維持して欲しいために、巣箱をハウスの中に入れたり、巣門をハウスの切り口にぴったり着けたりと、他所に蜜蜂が飛び出して行かないようにすることを要望する農家もある。しかし、現実的にイチゴの花だけでは蜜蜂の餌が不足するし、ハウスの中に巣箱を持ち込むと巣箱内の温度が上がり過ぎて蜜蜂の健康には良くない。そうなると結果的に蜜蜂の活動が衰えて、イチゴの交配に良い結果は出ないのだが、それを農家が理解するのは難しいようだ。
交配用に貸し出す準備をしている最中にも、イチゴ農家から「花が咲き始めているから早く蜜蜂を持って来てくれ」と、頻繁に携帯電話に連絡が入っていた。
給餌箱に餌として砂糖水を与える
巣箱の蓋に作業した日付と巣板の枚数を書き込む
蜜蜂に優しくするために素手で作業を行う
養蜂は家が建ち蔵が建ち
謙竜さんは楢﨑養蜂園の3代目と先に書いたが、正確には楢﨑養蜂園としての2代目なのだと言う。
「祖父の中村 昌平(なかむら しょうへい・享年85)は、17歳の時から養蜂を始めたようで、昭和10年の創業です。祖父が農学校に行っとった時に養蜂を教えてもらったようで、レンゲが一面に咲いているような糸島の田園で、その頃の養蜂は家が建ち蔵が建ちというくらい経済的には恵まれていたようです。養蜂家としては2代目、楢﨑養蜂園の初代である父親の楢﨑 正(ならざき ただし・享年64)は慢性のヘルニアを持っていて、3年前に難病を患って亡くなりました。ずっと父親と一緒に仕事はしていたけど、身内に教わるのは上手くいかないで、亡くなる4、5年前からもう現場には来なくなったんですけど、そうなって初めて、それまで10年ほどもあったのに養蜂の技術も知識も全然身についていないことを実感しましたね。父が来なくなってからも迷った時には現場に来てもらって相談が出来ていたけど、亡くなってしまった後は相談する相手も無くて、頼る相手が居ないということは、こんなにも怖いことなんかと思い知らされました」
「父は養蜂家で一生を通した人でした。父の代になると養蜂家は経済的に厳しい時代で、トラック運転手になろうかと迷ったこともあったらしいけど、何とか踏ん張って妹3人と自分の4人を学校に出してくれて、凄いなと今、感謝してます。祖父の中村養蜂場には長男が居て、うちの父は2男だから地元で養蜂は出来ないと思って、アルゼンチンへ移民することを考えていたようで、スペイン語の辞書が家に置いてありましたよ。でも、祖父から『目の届かん所へ行くよりは目の届く所へ行け』と言われて、楢﨑家へ養子に入ったようです。最初は、福岡県内の養蜂場へ修業に行き、退職金代わりに4群貰って、それから始めたと聞きました。楢﨑家はミカン農家だったので、そっちはそっちで手伝って養蜂も続けたそうです。母(恵里子・66)も一緒に養蜂をやっていましたよ。今でもスズメバチの見回りはやってくれています。今思い返してもバイタリティーの塊みたいな父だったですね」
一日の仕事を終えて自宅に帰りホッとした表情を見せる謙竜さん
養蜂家2代目となる父親の正さんが書道家に揮毫してもらった楢﨑養蜂園の看板
稲刈りが終わり静かな季節を迎えた草場集落の一番上に楢﨑養蜂園はある
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