2020年(令和2年1月) 38号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

〒880-0804 宮崎県宮崎市宮田町8-7赤レンガ館2F

 日本最南端の養蜂家と聞いて、沖縄県石垣島の枝並畝日(えなみ うねび)さん(55)を訪ねた。自宅玄関の天井を見上げると赤いフレームの競技用自転車が逆さに吊り下げてある。

 妻の由香(ゆか)さん(53)が私の視線を察して「山口百恵がマイクを置いたみたいで……」と呟く。畝日さんが養蜂家になるまでは、全国を転戦して2035回出走し、競輪レース優勝34回、1着は341回(※)の好成績を残す競輪選手だった。2010年6月の試合を最後に引退した畝日さんが、選手時代を思い出すようにぽつぽつと話す。

 「19歳でデビューして45歳まで26年10か月間、競輪の選手でした。実際に乗っていた競技用の自転車はもう手元にないんですが、記念に一台だけ残しておいたんです。東京都東村山市で育ち、中学の同級生と始めたサイクリングの楽しさが忘れられずに、ロードレーサーが欲しいなあと思ってしまって……。

運が良かったのは、東京でインターハイがあって選手の強化をしている時に高体連(全国高等学校体育連盟)の自転車競技本部がある高校に入ったことです。練習量が多いし、ついていけるのかなと心配していた時もありましたけど、何とか高校の選手生活を終えることはできました。高校を卒業する時には大学からの勧誘もあったんですけど、脚質がツールドフランスのような長距離選手とは違うので長距離では食べていけないと言われて競輪選手のテストを受けたんです。一回目は落ちたんですけど、他に選択肢は無かったですね」

45歳まで競輪の選手でした

自宅天井に吊されていた競輪選手だった記念の競技用自転車

※競輪は勝ち上がりトーナメント制。各レースの上位選手が出場する決勝レースで、その大会の優勝者が決まる。

独身の選手が押し寄せて合宿

 「自分の脚だけで勝負できる仕事なのが魅力だったのじゃないの」と、横で話を聞いていた由香さんが、共に過ごした選手時代を振り返るように話し始めた。「私、ほんとうは亡くなった父への憧れもあって、高校生の時から父が勤めていた商社で働きたくて、日本人の居ない所に自分を置いたら甘えがなくなるだろうと語学留学を目指していたんですね。それで留学の費用を貯めるためにアルバイトをして頑張り過ぎて、過労で倒れていた時に主人と出会ったんです。その後、葛藤はありましたけど自分の夢を諦めて、主人を支えようという方向にシフトしました。そこから子どもができるまでは、主人の後輩で独身の選手たちが我が家にご飯を食べに押し寄せて合宿みたいな生活でしたね。選手同士の物語を知るとファンは車券を買ってくれるんです。競輪選手の師弟関係は純粋ですよ。主人は枝並ですから枝豆って愛称で呼ばれていましたね。家を出て行く時には明るく『じゃ行ってくる』と言って出て行くんですけど、勝てるばっかりではなく負けて帰ってきた時には、もうお葬式状態。舌打ちして『なんで負けたんだろう』って」

 夫の打ちひしがれた姿を思い出したのか、由香さんが横の畝日さんへ愛おしそうな目を向けて大笑いしている。畝日さんも当時を思い出して一言。

 「90人の選手のうちで自分が一番練習している筈なのに、負けることも当然あるわけですよ」

引退記念に選手仲間が贈ってくれた盾

燻煙器を手に採蜜群の蜂場に入る畝日さん

内検の必須道具の燻煙器と刷毛

内検は蜂蜜の状態だけでなく女王蜂の様子なども確認する

木漏れ日に照らされるオオタニワタリ

左右の脚の長さが違うのを合わせる

 過激に肉体を使い危険と隣り合わせの競輪選手を、いつまでも続けることはできない。畝日さんも30歳を過ぎた頃から引退を意識するようになっていた。年齢と共に肉体が衰えていくのは分かっている。後輩が大怪我したり亡くなったりするのを目の当たりにして、引退の時期を模索する期間が続いた。「でも」と、由香さんは言う。「本人的には、戦争に行くような覚悟で試合に行っていたようですよ。中途半端な気持ちで試合に臨めばファンの皆さんにも申し訳ないし、結果を出せないだけじゃなく事故の原因にもなりますからね。私も、試合の日は毎回、生きて帰って来てくれたらいいな、というくらい覚悟は持って送り出していました。試合で怪我が度々続いた時、『左右の脚の長さが違うのを合わせる』と言い始めて、私は泣いて止めてと言ったのですが聞いてもらえず、結局、医者から断られてできなかったんですけど……」

 畝日さんがどれほど真摯な心意気を持って競輪と向き合っていたのかが伝わるエピソードだ。

周囲からは怠け病と思われて

 畝日さんは競輪選手を続けながら、引退後の仕事を模索していた。「自然にこだわっていたいなあと思っていました」と模索の方向性は決まっていた。伊豆大島の自然塩を見に行き、沖縄本島や八重山も訪ねた。石垣島へは、最初3泊4日の家族旅行で訪れた。それで、「2回目は、もう引っ越しだったんですよ。えーって、感じですよね」と由香さん。

燻煙器で燃やす麻布に火を着ける

 石垣島へ移住した当時、由香さんは病名の分からない難病に悩んでいた。激しい頭痛や目眩、耳鳴りなどに毎日襲われ、強い痛め止めを飲み続ける日々を送っていたのだ。吐き気がして記憶障害や倦怠感もある。寝たり起きたりの状態だったので「周囲からは怠け病と思われていたのでは」と、当時を振り返る。

 ある時、テレビで脳脊髄液減少症の症状を放映しているのを見ていた由香さん、「頭痛や朝起きられない自分の症状は、これが原因ではないかと思い至って専門医を訪ねたんです。悩んでいた辛い症状が、怠けではなく病気なんだと分かってからは気が楽になりましたね」。中学生の時にバスケット部の合宿で誤って鉄の階段から滑り落ちたことと、20歳の時に風呂で転んでしばらく記憶が無くなるくらい頭を強打したことが原因だった。2度の出産も症状を悪化させる要因となったようだ。

 「寝たり起きたりの生活をしている時だったんですけど、少し体が楽だなあと思える日の夕飯にグラタンを作ったら、小学生の娘が『お母さん頑張ったね』って褒めてくれたんですよ。好きな食べ物はって聞かれて『卵焼き、味付け卵、すいとん』って答えるような子だったんですよ。私が料理をきちんとできる状態ではなかったので、手間の掛からない料理を作っていたんですね。ずっと頭痛のない世界に行きたいと思っていましたけど、治療のお陰で、首と背中の痛みは今もありますけど普通の生活ができるようになりました」と、由香さんは本来の明るさを取り戻している。

木立の中の蜂場で木漏れ日が巣箱を照らし出す

パンナ公園近くの蜂場で内検する畝日さん

カブトムシを幼虫から育てた、蜜蜂も出来る

 暖かい所が好きだったのと、子どもたちに本物の自然を見せたいという思いが重なって移住先は石垣島に決まったのだが、石垣島での仕事は決まっていなかった。そのため石垣島に移住してからも、5年間は競輪選手を続けていた。再び由香さん。

 「引退レースは高知だったんです。私はまだ体調が良くなかったので行けなかったんですけど、レースの後で主人から『これまで支えてくれて、ありがとう』ってメールが届いたんです。これまで一度も主人からメールなんて受け取ったことなくて、えーっみたいな、嬉しいというよりびっくりで感激しました」

 「選手をしている間に、石垣島でできる職業を20くらいは調べたんです。最初はレンタカー屋さんをしようかと話したんですけど、車いっぱい買うの、車を洗うのは私ってことっていうのでやめ。ビルの夜警さんも考えました。でもなかなか『これ』って職業は見つからなくって、最後に塩造りと蜜蜂が残って、結局、何にも分からないまんま蜜蜂になったんです。最初、穏やかな性格だと聞いて日本蜜蜂を一箱5万円で買って、それがいなくなったんですよ、2回も。沖縄本島の養蜂家へ相談に行ったり色々な方にお世話になりながら、何とか自力で蜂蜜を採れるようになったのですが、1年目の年商は4万円。お世話になった島の人にほとんどあげちゃったんで……。2年目はゼロが1個増えて年商40万円でした」

 笑い話のような移住当初の話を横で聞いていた畝日さん。

 「無謀だったですね。子どもの頃カブトムシを幼虫から育てることをやっていたので、蜜蜂も出来るだろうと思っていたんですけど……。競輪選手もみんなから小さな身体では無理だよと言われながらも何とかやってこられて、目標とか夢とかがあったから良かったと思いますね。周りから笑われても夢はいっぱいあってね。でも今は、養蜂で頑張って安定させたいと思っていますけどね」

夕陽が傾き内検が終わると、巣箱を整理して一日の仕事が終る

畝日さんの太股は引退した今もズボンが張り裂けそうだ

蜜蜂に行き着いた健康オタク

 「養蜂家は石垣島に6人居て、皆で石垣島養蜂連絡協議会という養蜂組合を立ち上げたんです。1箱2箱ぐらいの巣箱を持っている農家の人も含めてですけどね。養蜂を本業にするなんてと、不思議がる人も居るみたいですけどね。最初は1箱から始めて競輪選手時代の貯金を切り崩しながら、もう10年以上になりますかね。最初は『ないちゃー(内地の人)は帰れ』とか『お金儲けにきたんだろう』とか言われたこともありましたし、2年契約で巣箱を置く土地を借りてたんですけど、ようやくきれいに整備したら『出て行ってくれ』となったこともあったですね」

 知らない土地で養蜂を始めた頃の苦労を語る畝日さん。横で由香さんが「子どもが居たので緩衝材の役割を果たしてくれました」と、自らを慰めるように言う。

 「主人の父親が56歳の時に癌で亡くなり、母親も57歳の時にやはり癌で亡くなったんです。私の父も47歳で亡くなっていて、こんどは娘が生まれて数ヶ月で心臓病と診断されてですね。それに私の難病でしょ。健康を考えると食べ物に関心を持つようになって、食品には蜜蜂が関与しているのを知って、家族の健康から蜜蜂に行き着いた健康オタクですね。15年前に石垣島に引っ越してきて腹が決まったという感じですかね」

オオタニワタリが茂る蜂場は採蜜群

 石垣島で養蜂を始めた当初は、由香さんも一緒に蜂場で蜜蜂の世話をし、採蜜もしていたのだが、ある時、面布の中に入った一匹の蜜蜂を追い出そうと面布を外した途端、数匹の蜜蜂に一斉に襲われてしまった。救急車で病院に搬送され3日間集中治療室に入院して事なきを得たのだが、「ちょっと遅かったら命が危なかった」と言われる危機的な状態だった。次に蜂に刺されるとアナフィラキシーショックを引き起こす危険性がある。それで由香さんは現在、蜂場には出ていない。

 畝日さんに最初に案内してもらったのは、新石垣空港に近い木立の中で南国を象徴するオオタニワタリが茂る採蜜群の蜂場だ。両脚にオレンジ色の花粉団子を付けて勢いよく蜜蜂が帰ってきている。

 「オレンジ色の花粉なので、シロバナセンダングサが咲いているんだろうと思います。これがなかなか良い蜜なんで助かってます」と、畝日さん。

継ぎ箱(採蜜用2段重ね巣箱)の蓋を開けて、畝日さんがゆっくりと内検をする。蜜房はどの巣板も蜜蓋が出来ていてほぼ満杯だ。

 「すぐにでも採蜜が出来そうですけど、実際に採蜜するのは年を越して1月でしょうね。石垣だとこれから春に掛けてが採蜜なんです。花は年から年中咲いているんですけど、春を過ぎたら採蜜はしないので……。冬場も蜜が採れないことはないんですけど、春ほどは採れないですね。それで冬の間は、岐阜の業者に交配用の蜜蜂を送り出しています。蜂蜜を欲しいお客さんには春まで待ってくださいとお願いしてですね」

 空港近くの採蜜群の蜂場は、特に手を入れる必要は無く蜜蜂群は順調に過ごしていた。畝日さんは幾つかの巣箱を内検して、この日の作業を終えた。

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