2015年(平成27年2月)4号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

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和歌山県日高郡みなべ町 中村養蜂園

お前は蜂屋さんって言われて育ったもんで、

他の仕事をするという考えはなかったですね

梅の開花を待ちきれず、一旦宮崎まで帰り、1週間後に再びみなべ町を訪ねると、平地の梅畑はようやく5分咲きほどになっていた。青空は見えるが、寒風が強く、蜂が活発に活動する気温12℃までには上がらない。

坂東養蜂場の当代になる3代目坂東忠則(ばんどう ただのり)さん(64)が、巣箱の内検をしている。

「今の時期は、特にする作業はないのでね、内検しとこうかと思って。うちの初代は、周一というんですけど、数えで言うたら108歳で亡くなったんかな。俺が生まれる前から、祖父さんは蜂屋をしてましたからね。兄弟は5人おるんですけど、上2人下2人が女で、男は私一人だもんだから、お前は蜂屋さんって言われて育ったもんで、他の仕事をするという考えはなかったですね」

養蜂家の家に生まれ育った忠則さんは、祖母の実家のある北海道で少年期を過ごした。父親の仕事を手伝うため、高校を2年生で中退してからは、養蜂一筋の人生を過ごしてきた忠則さんの話に、私は、没頭して聞き入った。

「蜂と付き合ってきて46年間。仕事は楽しく出来てます。寒くなると蜜蜂は一匹では外の環境に弱いんです。震えてる蜂が一匹でもおったら、両手で包み込むように温めてやると、パーッと飛んで行きますんでねえ。そういう可愛いらしさはあります。寒さで翅をビリビリッと震わせ始めると、ほんともう何分かで死んでしまうんです。巣箱の中で団体生活をしてると、マイナス10℃ぐらいまでは北海道でも生きておられるちゅうですけどもね。蜂球(ほうきゅう)て言いまして、蜂が団子になって、外の奴が中に入って、中の奴が出てきて、順繰り順繰り、自分らで体温を保っているんですけども。蜂球は、ただ団子になってるだけでなしに、順繰りに入れ替わっているんですね。でも、一匹だけになったら、ほんとに弱いですわ」

自宅裏の梅畑で、巣箱の内検をする坂東忠則さん。「新王が生まれていますね」と、

春になっての蜜蜂の活動が順調で嬉しそうだ

給餌箱に与えた砂糖水が少しこぼれると、

さっそく蜜蜂が口吻(こうふん)を出して吸い始めた

風が冷たく気温の上がらない日は、

巣箱の中でも蜂たちは蜂球の状態で寒さをしのいでいた

一番年寄りの蜂というんか、いつ死んでもええ蜂が、

水場の一番危険なとこへは行きますね

「水場へ水を集めに行く蜂は、一番年寄りの蜂というんか、いつ死んでもええ蜂が、水場の一番危険なとこへは行きますね。川原だとか水たまりへ行って水を吸うと、自分の体温が下がってしまうんです。ほんで、巣に帰って来られない蜂がたくさんおるんです。水は、家(巣)の中を掃除したり、子どもの餌を作る時に、花粉と蜂蜜を混ぜるんですけども、その餌を柔らかくしたりするのに使います。夏場は、水を垂らしもって扇いで、ラジエターの代わりみたいに、温い空気を外へ出すのにも使うんですね」

「蜂の体の中には、胃袋と蜜胃という蜜を運ぶための袋があるんです。蜂蜜は、蜜胃に入れて持って帰って来るんですけども、水を吸いに行く蜂は、蜂蜜集めには行かないんです。歳の順で、日齢て言うた方が良いんかな、仕事するようになっておりますんで。若い時は、家の中の子どもの飼育とか、家の中の掃除とかする内勤蜂と言うんですけど。ある程度歳を取ると、外へ出て働く外勤蜂っていうのがあるんです。外勤蜂が蜜を採りに出て、内勤の蜂に口移しで蜜を渡して溜めていくんですね。巣箱を触っていても、怒ってくるのは一番年寄りの蜂。経験が豊富なちゅうたらええか、まあ、怒り出したら一斉にお尻を跳ね上げて、蜂毒のとこから液出しもって怒るんですね。刺してしまったら自分の生命っていうのは無くなるんですから。年寄りの蜂は、それを知ってて、仲間を守るために身を挺して襲ってくるんですからね」

養蜂家の誰もが、このような蜜蜂の世界を意識しているかどうかを知る由もないが、現代の人間社会の合わせ鏡として蜜蜂の社会を映し出してみると、胸に手を当てて考えさせられてしまう。儚い命と日常的に接している養蜂家は、生命の根源について考える習性を必然的に身につけてしまうのかも知れない。

みなべ町晩稲(おしね)地区の光明寺境内にある蜜蜂供養塔。

毎年3月8日に養蜂家が集まって蜜蜂の供養をする

農薬が飛んでることが分かっていても、

蜜蜂を飛ばせないようにはできないので

儚い命と接しているからこそ敏感に感じられる環境の変化もあるようだ。

「蜂を育てていて、いま難しいのは、やっぱり天候と農薬かな。梅の時期は、梅の花が終わるまで殺虫剤はやらないようにと、私が養蜂を始めた時代からお願いしまして、今も、農家の人は止めてくれてるんですけどね。梅以外の植物には、殺虫剤を掛けたりしますんで。作物ちゅうのは、花が咲きますんで、それに虫が付きますんでね。農家の人は、蜂がいなくなったら自分たちも困るというようなことは思ってないですもん。農薬が飛んでることが分かっていても、蜜蜂を飛ばせないようにはできないので、為す術はないんですわ。巣門を閉めてしまったら、蜂は死んでしまいますのでね。天候の不順は、ここ7年ぐらいになると思いますわ。暑すぎたり、寒すぎたり。北海道でも、去年の7月中ずっと雨だったもんで、北海道やけん梅雨はないと言うんですけどもね。やっぱりこの頃は雨が多いですわ。採蜜の時期にね」

「蜜蜂は、だいたい同じ花へ行くんです。和歌山ですと、ミカンの花と同じ時期に咲くのはハゼかな。群れの単位ごとに、ミカンへ行く蜂の群れはミカンばっかし行くし、別の群れはハゼへ行くとしたら、ミカンの方を放っといてハゼへ行く。巣箱に帰ってきた蜂が報告するもんで、花の固定は群れごとにあるんです。そんでも、ミカンの蜂蜜って半透明なんですけども、色が着くことがあるんですね。帰って来た蜂に教えてもらっても、よそ向いて、色の黒い蜂蜜を採ってくる奴があるから、ミカンの蜂蜜に色が着いてしまうんですけどもね。そんなへそ曲がりもおるんですよ。蜜蜂は、一つの花から蜜を全部吸いきるんじゃなしにね、少し残してきますんで、はい。そうすると、次の蜂が、また、花粉を付けもって、交配に来るでしょうからね」

梅の花にすがって蜜を吸う蜜蜂。南高梅は蜜の量が少く、

人がいただくほどは採れない

開花が間近い谷間の梅畑に置かれた巣箱。越冬からの回復が遅い蜂は、

梅の蜜が力を与えてくれる

北海道と和歌山県を行き来する転飼養蜂の草分け的存在

坂東養蜂場初代の坂東周一さんは、1894(明治27)年に福井県に生まれ、20歳の頃に北海道で養蜂を始めたと記録にある。およそ100年前のことだ。北海道での採蜜を目的とした転飼養蜂が盛んになり始めた時期と一致する。転飼養蜂をする土地として、周一さんが初めて現在のみなべ町を訪れたのは、1937(昭和12)年の頃だ。当時は、蜜蜂と共存共栄の関係にある南高梅の開発には至ってないため、養蜂業に対する農家の目は冷たく「巣箱を置くと梅の実に傷が付く」とか「梅の枝が硬くなる」と言われて、相当の苦労があったようだ。

北海道と和歌山県を行き来する転飼養蜂の草分け的存在の周一さんが始めた養蜂業を、安定した職業として根付かせたのが忠則さんの父になる2代目の忠男さんである。忠男さんは、3、4人の弟子を取り、皆が養蜂家として独立している。その一人が中村養蜂園の初代、哲夫さんであることは先にも述べたとおりだ。父親から直に養蜂を学んだ忠則さんは、家族として弟子として、共に生活をしながら仕事を覚えていくことが養蜂家としては大切と言う。

「蜜採りの仕事は流れ作業になるから、それぞれの仕事はちょっと違うんですけど、普段は、親子で、現場で、同じような仕事ばっかりしますんでね。内勤の仕事や内検の仕事は、だいたい同じ仕事ですから。現場で見れば一目瞭然。文字ではやっぱり伝わらんこともあるからね」

 

自分は蜂を飼っているじゃなくて、蜂に飼われているんだって

忠則さんの話を聞いているうちに、薄日が射して蜜蜂が飛び始めたようだ。悌さんが山の梅畑の巣箱を内検に行くというので、同行させてもらった。一つ一つの巣箱を丁寧に観察しながら、餌の砂糖水を給餌箱に入れていく。

「この群れは、色黒いから怒りっぽい蜂。昔、お父さん(哲夫さん)が、ロシアから真っ黒い蜂を入れたことがあるんですよ。その系統は、何をしても怒るんですよ」と、笑いながら説明してくれる。

「蜜蜂って、毎日見てたら可愛いもんですよ。か弱い小っちゃい生き物やし、どんな生き物でも怒らしたら、噛んだり刺したりしますよね。言葉しゃべれんのやし」

悌さんから昨日聞いたばかりの北海道の農協に勤めていた時の体験談を思い出した。

「酪農家のお爺さんに言われたんですよ。『僕らは、牛を食べさせてるんじゃないよ。牛に食べさせてもらってるんだよ。牛は言葉を話せないんだ。牛の言葉を感じてやらなきゃだめだよ』って。実際、自分が蜂屋という家畜屋になった時に、自分は蜂を飼っているじゃなくて、蜂に飼われているんだって、良く分かりましたね」

梅の木を見ると、真っ白い花に小さな蜜蜂がすがりついているのが見える。ひと時もじっとしていることなく動き回り、次々と新しい花にすがりつく健気な蜜蜂を見つめていると、か弱い小さな命の愛おしさがこみ上げてくる。

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