2020年(令和2年5月) 42号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/

編集:ⓒリトルヘブン編集室 〒880-0804 宮崎県宮崎市宮田町8-7赤レンガ館2F

何時間でも羽音を聞いて

 「私で3代目なんですよね。3代目で終わりかと思っていたのですが、裕隆が3年ほど前に帰ってきてくれたんですね。大学に入った時点で化学の分野に行っちゃったの。これは無理だなと思っていたのですが……」

 富二さんの話を引き継ぐように裕隆さんが話し始める。

 「大学院を卒業してリサイクル会社に勤めたんですけど、貴金属のリサイクルで研究所みたいな所なんです。人間にとって良い仕事じゃないなと思っていたところに『戻って来るんだったら、戻って来い』と、父さんから声掛けてもらって……。小さい時から環境問題に関心を持っていたのもあって3年は勤めたんですけどね。物心付いた時から馴染んできた蜜蜂なんで、自分に合っているんでしょうね。巣箱の上に座って何時間でも羽音を聞いておられますもんね」

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    祖父ちゃんが熊を追い掛け退治

     富二さんが、菅野養蜂場の歴史を振り返る。

     「祖父の代から受け継いできた養蜂の技術を、裕隆が4代目として継いでくれることになったのは嬉しかったですね。初代の祖父(じい)ちゃんが福島から北見へ屯田兵の後の第2陣の開拓で入ったと聞いておりますけど……。ハイカラな人だったようで、当時は甘味料がないということで聖書の『乳と蜜の流れる地』にちなんで養蜂を始めるんですね。ある時に蜜を食いに熊が来たんで、私の伯父が鉄砲で撃ったんですけど仕留めることはできずに、翌日も又、蜜を食べに来たので、祖父ちゃんが追い掛けて行って退治したんだそうですよ。でも、その時に祖父ちゃんも内出血の大怪我をしていたのにレントゲンが無くて分からず、一か月くらい後になって亡くなってしまったと、父から聞きましたね。父の養蜂家としての名前は裕保(ひろやす)と言ってました。父は二男だったんで、岐阜の大きな養蜂家のところに修業に行っていて、巣箱に大きな給餌箱を入れて、その中に米を入れて北海道へ運び、帰りは小豆を運んで儲けたらしいですよ。戦後すぐのことで、当時は北海道でほとんど米は出来なかったですからね。父の兄は戦死しちゃったもんで、畑の種蒔きの時期は、父が岐阜の養蜂家の所へ行く時期と重なっているもんですから、大変だったのは母ですよね。農業と養蜂、両方をやっていたもんですから」

    全国を移動する仕事だった

     「私は林業の学校へ行っていたんですけどね。国家公務員になろうと思っていたんですよ。その頃の先生が『おい、営林署へ行ってみろ。机の中には週刊誌しか入ってねえぞ』と言うのを聞いて、覇気の無い営林署の様子を想像してしまってですね。私が小学生の頃はカラマツの皆伐時代なので働く人に勢いがありましたからね。輝いて見えていた公務員も先細りに思えてしまったんです。それで、父親の勧めで昭和43(1968)年に高校卒業してすぐ鹿児島県鹿屋市の石踊(いしおどり)養蜂場に修業に行きました。菜の花蜜を採りに蒼々たる養蜂家が50人ほど全国から鹿屋市に集まって来てたんでね。顔を覚えてもらえばと思ってましたね。笠野原台地という南部九州最大のシラス台地がありましてね。その台地が真っ黄色になるほど菜種が植わっていたんですよ。それが高隈山にダムが出来てからは灌漑用水が来るようになって、お茶を作るわ野菜を作るわ民家は建つわで、菜の花は無くなってしまったんです。そこに5年居たのかな」

     修業時代を終えた後は蜜蜂群を越冬させるため全国に移動し、春の菜の花やレンゲの採蜜をしてから北海道の訓子府へ帰る移動養蜂をしていた。移動するのは鹿児島県鹿屋市はもちろん、父親が馴染みのある岐阜、それに和歌山、白川郷、伊豆などだ。

     「訓子府は北海道でも田舎なんですけど、全国を移動する仕事だったんで各地の色々な人と知り合うことができましたね」

     東京・浅草生まれの菊枝さんとは、石踊養蜂場へ行ったことが縁で出会ったという。修業を終えてからはお礼奉公として、蜜蜂群を移動させる忙しい時期は修業先に手伝いに行く習わしがあった。「3月末に鹿児島で巣箱の移動を手伝いに行っていた時に(妻の)兄が来ていて知り合ったんですね。それで、私の蜂を鹿児島へ移動して北海道へ帰る途中で、その兄を訪ねて浅草に立ち寄った時に菊枝に出会ったんです。結婚してからも、採蜜の時は夫婦で手伝いに行ってましたね」

    自然の花が咲く季節を追い掛けて

     ここで菊枝さんが富二さんと出会った当時を思い出すように話し始めた。

     「兄は養蜂をしてはいないんですけど、蜂蜜に関係する仕事をずっとしていて、今でも鹿児島でお世話になった蜂屋さんとのお付き合いをしているほど蜜蜂には関心があるんですよ。そんな兄が鹿児島から浅草に帰ってきて聞かせてくれる蜂屋さんの話は、私には別世界で興味がありましたね。当時、私は管理栄養士をしていたんですね、食品に関心を持っていたので兄が鹿児島で感激したことをそのまま話してくれたのですが、都会で暮らす自分は人間らしい生活をしていないなと、蜂屋さんの生活を羨ましいと思って聞いていました。兄が持って帰ったレンゲの蜂蜜はほんとに美味しかったですもんね。結婚してからの生活は、それまでとはまるで別世界。昔は家(うち)の養蜂も、自然の花が咲く季節を追い掛けていく移動養蜂だったので、面白い生活でしたね。面白いな面白いなという感じの毎日でした」

     菅野養蜂場は、その後、岐阜に100群、和歌山に100群、静岡に100群を置いて越冬する準移動養蜂に変え、それぞれの地域を拠点とするため間借り生活をしていた。それを全部、現在の静岡県伊豆市に集結したのは平成15(2003)年のことだ。

     「それでようやく夫婦が一緒に仕事できるようになったんだけど、最初のうちは借家だったんです。蜂の活動に合わせると、どうしてもここに着くのは夜中になるんで、借家の時は掃除をしないと寝られないので大変でした。ここの住宅を建てたのが11年前でしたね」

     移動養蜂家の大変さが伝わってくる。それを浅草生まれながら「面白いな」と思える自然好きで太っ腹の菊枝さんだからこそ、富二さんを支えてこられたのだ。

    サッと落としてパッと止めて落とす

     午後の採蜜は「早霧湖(さぎりこ)」と呼ぶ蜂場から始まった。新緑がまぶしいクヌギ林、木立の間から光が射し込む清々しい蜂場だ。

     「これ末交尾だったんですよ」と継ぎ箱の蓋を開けながら、富二さんが私に語り掛ける。継ぎ箱から取り出した巣板一枚一枚をゆっくり見ていくと、女王蜂を発見。「産卵もしていますね」と、巣房の底に白い点のような卵を確認。「ハイ、これで移虫群一丁上がり」と、富二さんが嬉しそうに言う。

     早霧湖蜂場の次は、堀切蜂場だ。

     富二さんが継ぎ箱から蜜巣板を取り出し、巣箱に立て掛けるように並べて置いている。蜜巣板に蜂はほとんど居ない。蜂払いの技術が優れているのだ。

     「蜂が、今のは何かなあと思っているくらいに静かに巣枠を持ち上げて、そう思っている瞬間に(巣枠を)サッと落として、パッと止めて(蜂を)落とす。それが蜂払いの要領ですね」

     なるほど、富二さんが巣枠を持って、ストンと落としパッと止めると、巣門の前にザザザーッと音を立てるように落ちていく。

    あ、流蜜している

     しばらくすると、継ぎ箱から蜜巣板を取り出しながら、富二さんが首を傾げている。

     「同じ時に北海道から持って来て、建勢も同じにしてるんですけど、ここはちょっと遅れてますね。高い所なので全体に気温が低いのと蜜源が少ないんでしょうね。蜜の入りが悪いですね。50年やってきても同じに出来ない。難しいですね。ま、その難しさが面白いと言えば、そう言う面もあるんですけどね」

     こんな話を聞いたばかりなのだが、巣箱近くまで帰ってきていた胴体を膨らませた蜂が、巣門まで辿り着けずに巣箱の前で落ちるのを見て「あ、流蜜している」と、裕隆さんが声に出す。「黄色い花粉を付けていたので、たぶん菜の花だろうね」。山桜は終わったが、菜の花は咲いているのだ。

     蜜蜂は巣箱を採蜜のために飛び出すとおよそ500個もの花を訪れて、蜜嚢(みつのう・花蜜を溜める袋)を約40mgの花蜜で一杯にして巣箱に持ち帰ってくる。自分の体重の半分の重さだ。あまりにも沢山の花蜜を蜜嚢に溜めて飛ぶと、その重さに耐えられず巣箱に辿り着けないこともあるのだ。

     この日、4か所の蜂場で採蜜を終えると、すでに午後5時前になっていた。桜蜜を一斗缶で19缶。この日の成果だ。これで伊豆での採蜜は明朝に1か所を残すだけ。ほぼ終わった。「ふうっ」と実里さんが安堵のため息を吐いている。自宅に帰って採蜜した蜂蜜を糖度計で測ると80.7度だった。

    新しい王様が誕生するのを待つ

     夕食前の休憩時間。富二さんと裕隆さんに養蜂の魅力や難しさを伺う。富二さんは人間の都合で蜜蜂を管理することには気が進まない。

     「北海道へ群を割って(2つに分けて)持って行って、(女王蜂が居ない方の群に)変成王台が出来て新しい王様(女王蜂)が誕生するのを待つ訳なんですよ。この卵が女王蜂に向いていると、蜂自らが選んだ卵から産まれた女王なんですから、それより優れた女王蜂は居ないと思いますよ。私は自然に逆らわないようにやっています。ここ(伊豆)で割って北海道へ持って行く途中で変成王台を作る奴(群)もありますからね。先に出てきた王様(女王蜂)が良ければ、後で出てくる女王(蜂)を噛んでしまって2匹目は出てこないですもんね。自然に逆らっても絶対に勝てないもん。50年からやっていて、僕が見ていても飽きないもんね」

    花が受粉のために蜂を呼んでいる

     菅野養蜂場の本拠地、北海道常呂郡訓子府で15年前から行っている養蜂授業では、子どもたちに必ず伝えることが2つある。

     「蜜蜂が蜜を採りに行くのではなく、花が受粉のために蜂を呼んでいるのだということを知ってほしい」

     この言葉は新鮮だ。確かに花が流蜜するのは花のためではなく、蜜蜂が流蜜に誘われて花蜜を採りに来てくれることで、受粉をさせてくれるからなのだ。

     もう一つは「人間は刺されても痛いだけだけど、蜂は刺したら死ぬんだから、刺されないようにしないとね」と、蜜蜂の立場から刺されないことの大切さを伝える。この視点も、子どもたちには一生を支える自然からのメッセージとして心に深く刻まれることだろう。

     富二さんは、高校を卒業してすぐに石踊養蜂場へ修業に出た時から数えて53年間、蜜蜂と共に仕事をしてきた。「70歳を機に日本養蜂協会の会長の他、全ての役職を辞めて、しがらみも無くなった」と言われる今、「蜂を飼っていたお蔭で、全国の色々な人と出会うことが出来た。蜜蜂の仕事は人と人を親密にしてくれるんです。そういう意味では幸せな人生だったかな」と、充実感と共に振り返ることができる人生は、今もなお輝いている。

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