2020年(令和2年8月) 45号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

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趣味で蜂が飼えるか

 本拠地は静岡県伊豆の国市に置きながら、春には伊豆大島で大島桜の蜜を採り、初夏には長野県でアカシアの蜜を採る。そして盛夏、シナノキの蜜を採る時期に合わせて、北海道常呂郡訓子府町(ところぐん くんねっぷちょう)に村上養蜂Beehiveの村上康裕(むらかみ やすひろ)さん(53)を訪ねた。

 「シナノキは7月20日頃から早咲きが咲き始め、お盆の頃には終わります。天気が良ければ、その間に3回は採蜜できますね。昨年は裏年だったし、その2年前には全く駄目で、(蜂場に)巣箱を持って行っても(採蜜は)駄目だという年もありましたね。今年は表年で非常に花付きが良くて、天気さえ良ければ期待できるんですけどね」と、康裕さんが今年のシナノキの採蜜に期待を寄せる。

 「10数年前には養蜂を仕事にしているとは、想像も出来なかったんですけどね。癌で亡くなった父親が、数群、趣味程度で飼っていたんですね。和歌山県の潮岬近くなんです。県職員の農業改良普及員をしながらみかん園をやっていて、みかん園の中で何群か蜂を飼っていましたね。亡くなる少し前でしたけど病院で母親と一緒に付き添いをしていた時、励まそうという思いから『みかん園を継ぐから』と言ったんです。だけど、それには応えないで『蜂を覚えておくと良いよ。財産になる』とひと言、言い残して亡くなったんですよ。父のその言葉もあったし、残された蜂を可哀想と思う気持ちもあって、(父親から)引き継いで蜜蜂の面倒をみることにしたんですが、分からない事がたくさん出てきて、養蜂の本を読んでも実際には分からないんです。それで、静岡県の養蜂協会に入ったら何か教えてもらえるのかも知れないと入会して、年1回の総会に出席したんです。そこで、運命の出会いというか、菅野富二(かんの とみじ)さん(71・42号で既載)と出会って真顔で怒られましたからね。僕をにらみ付けて『馬鹿野郎、趣味で蜂が飼えるか』と言ってもらって、それが転機になりましたね。その後、訓子府町へ転飼で来ることになった時には『研修生ということで』と、町営住宅の保証人になってくれて住むことができたんです」

 菅野さんとの出会いが人生の転機となったが、康裕さんは養蜂家になる前はどんな仕事をしていたのか気になるところだ。

 「レーシングカーのメンテナンスをする会社で働いていました。ル・マン24時間レースにも出場するような競技専用自動車チームのメカニック担当で、壊れた部品を材料から削り出して作るとか、材料の加工や溶接など色々な技術を覚えられたのは良かったですね。典型的な職人世界で厳しい上下関係がありました。その後、静岡県の別の会社に転職しましたが、ここでも自動車レース用の部品を開発するエンジニア仕事が忙しくて、月に100時間以上も残業をする生活でした。ある5月の朝でした。山里を車で走っていて新緑に輝く風景を見て、野山で働く仕事をしてみたいと急に思い立ったんですね。40歳にはそんな生活を目指そうと決めたんです。それが35歳の時でした」

 菅野さんに出会って「本業でやりなさい」と言ってもらえたのが41歳。その前年には5月の新緑を見て決意したとおり、養蜂を本業とすべく自動車部品開発会社を辞めていたが、食べていくのは簡単ではなかった。

 「最初は蜂だけでは食べていけないと思ったので、地元の鉄道会社グループが経営するオートキャンプ場に転職して働き始めたんです。実はそこで、レストランの厨房で働いていた妻と出会ったんです。静岡の伊豆半島と私が育った和歌山の紀伊半島は植生が近くて、他所に来た気がしなくて土地との馴染みも良かったですね

月に100時間以上の残業

蜂場から半径2キロの円を地図に描き、蜂の活動範囲が重ならないように配慮する

緑丘蜂場から林道を入った森の中で満開のシナノキの花。すでに実になっている花もある

師匠でもある菅野富二さんの倉庫で、シナ蜜を貯める一斗缶を分けて貰う

3年前に訓子府町で購入した中古住宅のリフォームをする康裕さん

師匠である菅野養蜂場の店舗を訪ね、菊枝さんの話を聞く

生物は自然のキャパシティの中でしか生きていけない

 康裕さんは、残業が100時間以上という仕事漬けの生活から、本来の自分の姿をようやく取り戻したようだ。康裕さんの話を傍らで聞いていた亜紀子(あきこ)さん(53)が、2人の出会った当時の様子を聞かせてくれた。

 「康裕さんにくっ付いて蜂の世話にもよく行きました。康裕さんはもう蜂屋さんの心になっていて、話してくれる蜂の生態って面白いんだなあって思いました。花がたくさん咲いていれば蜂の数が増えるというように、生物は自然のキャパシティーの中でしか生きていけないことを蜂が教えてくれるという話が一番印象に残っていますね。私は、横浜の出身なので自然と触れ合う機会はなかったのですが、大学の調理学研究室で教授の助手として食の仕事をしていたんです。その頃、夏休みにはアメリカ・シアトルのマウント・レーニア国立公園で開催されるボランティアプログラムに8年ぐらい毎年行っていたんですね。その時の経験で自然の中で仕事をするのって、ほんといいなと思っていたんです。大学での仕事からオートキャンプ場の宿泊施設で働くようになったのも、そんな自然志向が働いたのかも知れません」

 出会って3年後に2人は結婚することになるが、それ以前に菅野富二さんから声を掛けてもらい2人で訓子府町へ転飼に行っている。

訓子府はお父さんが住んでいた街

 「転飼で鹿児島から北海道に来ていた養蜂家が仕事を止めることになって、その方の訓子府町の蜂場を使わせてもらえることになって有り難かったですね。その前のことですけど、たまたま菅野さんのシナ蜜の採蜜を手伝いに来ていた時、菊江さんが実家にメロンを送ってくれた送り状の住所を母が見て、『訓子府はお父さんが若い時に住んでいた町なんだよ』って聞かされて驚きました。戦後間もない頃、父が働いていた醸造所のご主人が和歌山の出身だった縁で、住み込みでその醸造所で働きながら勉強して、帯広高等獣医専門学校に進学を目指していたらしいんです。最終的には農業改良普及員として故郷の和歌山で働くことになるんですけど、父が独身の頃には『トラックに蜜蜂を積んであっちこっちしたい』と言っていたと、親戚の方に聞いたことがありますね。私がどうして養蜂家になり、それにどうして訓子府なのかと考えると、父の導きなのかと思いますね」

蜜蜂の世話で時間が空くと古い巣箱を洗うなど
自宅での仕事をする

緑丘蜂場でシナ蜜の入り具合を確認した後、

熊避け電柵の電源を入れる

緑丘蜂場で電動蜂払い機を使って蜜巣板を取り出す
康裕さん

トラックの荷台の上で亜紀子さんが蜜蓋を切る

遠心分離機で搾ったシナ蜜を漉し器を通して
一斗缶に貯める

1日目の採蜜を終え自宅でシナ蜜を入れた一斗缶を洗う

花が咲くとなると何が何でも蜂だけは移動

 静岡県伊豆半島の付け根の山中を拠点にして冬を越した蜜蜂群は、早春には伊豆大島へ移動し大島桜の蜜を採ることになる。

 「伊豆大島へ行くようになったのはまだ2年前ですけど、大島桜の蜂蜜は非常に香りが良くて魅力的なんです。今年は2月中旬から行ったんですけど、来年は年明けには行こうと思ってるんです。椿で知られた伊豆大島ですけど、蜂が飛べるような暖かさになれば、その前に小鳥が花蜜を取ってしまっていて、椿の蜜は採れないんですよ。伊豆大島へはフェリーがないため、巣箱をクレーンで吊り上げて貨物船に載せて運ぶんです。北海道へ移動するよりも大変じゃないかと思うほどなんです」

 伊豆大島から伊豆半島に帰ると、みかん蜜の時期だ。みかんの採蜜が終わると、採蜜用蜂群の半数に当たる約50群は6月中旬まで伊豆半島に置いて百花蜜を採り、残りの50群は亜紀子さんの両親が暮らす長野県へ移動してアカシア蜜を採ることになる。亜紀子さんが長野の両親に感謝を込めて話す。

 「横浜の両親が勤めを定年退職した後、長野に住み始めた時に近所の方がアカシア蜂蜜を持って来てくれて、こんなに美味しいのかと驚いたんですね。それで長野に蜂場を確保できないかと思って申請を出したら、申請したのがたまたま空白状態になっていた所で通ってしまって、長野は蜂場の激戦区なので運が良かったですね。長野のアカシアは5月末から6月5日くらいまでなんですけど、北海道へ移動する前に一旦伊豆に帰るんですけど、タイミングが合えば北海道へ移動してからもアカシアがもう一回採れますね。長野の採蜜の時は、私の両親と妹も手伝ってくれるんですよ。ほんとに家の前が蜂場なんです」

 「自然相手の仕事だから、花が咲くというと何が何でも蜂だけは移動して、人間は後でということもありますね」と、康裕さん。

 康裕さんと亜紀子さんの半生を伺っていると、突然、激しい雨音が聞こえてきた。

この夏、目標は一斗缶100缶

 夕立を機に、翌日から始まる採蜜で搾った蜂蜜を入れておく一斗缶を分けてもらうため、養蜂の師匠である菅野富二さんの倉庫兼作業所を訪ねることになった。菅野さんの倉庫兼作業所は、訓子府町の市街地から少し離れた小高い丘の上に建つ。4代目となる裕隆(ひろたか)さん(31)の曾祖父が最初に住んだ菅野養蜂場の原点ともいえる土地だ。富二さんと裕隆さん父子は、採蜜した蜂蜜を一旦大きな貯蔵タンクに溜め、自然からの恵みであるが故に蜂場によって微妙に変動する蜂蜜の特性を均一化する作業の最中だった。

 村上夫妻の顔を見ると菅野父子は作業の手を止め、大きな倉庫の2階に保管してあった一斗缶を100缶、村上さんのトラックに積み込む手伝いをする。師匠と弟子という関係を越えた富二さんの親愛の気持ちを感じさせる行為だ。菅野さんから分けてもらった一斗缶100缶は、村上さんがこの夏、訓子府町で採蜜しようとする目標の量でもあるのだ。

 康裕さんと亜紀子さんは、翌日採蜜をする予定にしている緑丘蜂場へ向かい、継ぎ箱(採蜜するため2段重ねにした巣箱)の片側を持ち上げて蜜の入り具合を確認する。気になる巣箱は蓋を開けて、蜜巣板の蜜蓋の掛かり具合を確認している。

 「明日の採蜜は1日延期して明後日にします」と、康裕さんが私に告げる。蜜の入り具合が考えていたほどではなかったようだ。

 時刻は午後6時半過ぎ。蜜の入り具合の確認を終わり、緑丘蜂場を取り囲むように設置した熊避け電柵の電源を入れていると、1台の軽トラックが近づいてきた。着けているベストで猟師だと判る。「近くの小麦畑に熊が居たようですから、気を付けてください」と、車の窓から顔を出して告げるとUターンして街の方へ戻って行った。熊の存在は身近な現実の脅威なのだ。

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