2020年(令和2年10月) 46号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

〒880-0804 宮崎県宮崎市宮田町8-7赤レンガ館2F

 愛知県南部の渥美半島は北側を三河湾、南側が太平洋に挟まれ、その中央を国道259号が東西に走っている。国道259号を車で走っていると一際目立つ白地に墨のレタリングで「はちみつ」の大看板。先代の鈴木政夫さん(77)夫妻が暮らす住宅の一部を改築した有限会社鈴木養蜂園の直販店だ。

 「道路端に家を建てて、そこで蜂蜜を売りたいと思うとったけど、土地が特別農地法の農振地区に掛かっとって、宅地に変更できずに、1軒だけだからという理由で、農業委員会に2回も呼び出されて……、特殊なものだで、今、必要なものだでと言うても、だめだと言われて2年間許可が出なかったんでぇ。困っとったところに当時の農協長が『蜜蜂を飼うのに家が多い所では糞害があって迷惑をかけるで、他では出来ない』と言ってくれて……。それで今の土地を宅地にと申請して、やっと許可をもらって建てたんで」

道路端に家建てて、蜂蜜売りたい

ヒノキ蜂場で、越冬のための餌が不足していないかと
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国道259号線沿いで一際目立つ鈴木養蜂園の看板

 政夫さんが、愛知県田原市加治町に家を建てた40年ほど前の経緯を振り返る。

 「終戦直前の生まれで、兄弟8人で5番目。食べるものも何もなかったで、とにかく働いて金を貯めんことにゃ何にもできんと思ったね。ほんとに親というものは、有り難いもんだよね。父親は56歳、母親が78歳まで生きたからね。親は家を造ったけど火事になって、何もかも無くなって、貧しかったな。何だかんだ皆に助けてもらっただよな。兄弟でみんな一軒ずつ家を造ってきた。それだけ絆があっただよね」

50年前の2群が今も続く

 「私ゃ、運送の仕事をしていてね、蜜蜂はね、昭和49(1974)年に、何かの本を読んどってね、これは健康にいいと思ってね。近所に蜜蜂を飼っている人が居たから、その人に2群分けてもらって。50年近く前だもんね、金額は忘れたけど、高いとは思わなんだなあ。最初は教わって、あとは本を買って勉強して、それが上手くいったんですね。50年前の2群が今もずっと続いとるでね」

 政夫さんが、こんな話をしているのを傍で聞いていた妻の哲子(のりこ)さん(72)が、「ほとんど私がやりましたよ。この人は言いっ放し。基本、私は昆虫好きですもん」と実態を暴露する。すると、政夫さん「朝早く家を出て、名古屋、三重県まで毎日仕事で行っていたからね」と言い訳。しかし、蜂への愛情は人一倍のようだ。「蜂はお利口、裏切らないから。そこが魅力ですよ。一匹の蜂も殺さないと思っているかどうかですよ。愛情を掛けて育てていると、春先に内検して、5日くらい後で蜂場へ行くと、蜂が増えとるで、それが嬉しいし楽しいで。蜂を始めてしばらくしたら、農協からメロン交配用に蜜蜂を貸し出して欲しいと渥美養蜂組合に連絡があって、養蜂業者が4軒あって、それで皆で蜂を増やそうとなって、2群からずんずん増やして40群ぐらいになって、それが100群ぐらいまでになったで」

養蜂で挫折はないな、内助の功もあったけど

 「だけど、今は花が無くなったで、いかんね。ぼくがやり始めた頃は、ほかっといても(蜂蜜が)採れたけど、ここ7、8年前までがピークだったかな。キャベツ栽培が昔は1作だったけど、今は2作になって、1作の時には(収穫期が終わると)そのまま花が咲いていたけど、今は、農協が『虫が寄ってくるから花の咲く前に畑を起こしてくれ』と言って、キャベツ畑が花の咲く前に無くなってしまっているでね」

 「渥美養蜂組合の総会の時には、長野や北海道、秋田から転飼で渥美半島に来ている養蜂家とも話が出来て良い機会になったね。今でも長野から3軒来とるね、500群くらいは来とるかな。蜂を飼う人は変わり者ばっかりでぇ、並みじゃないでぇ。ぼくは養蜂で挫折はないな、内助の功もあったけどな。全国的にカラスザンショウが増えとるね。トゲがあって猿も登れん大きな木になるだけど、竹藪も押しのけて増えとるでね。それでうちは(カラスザンショウの蜜が越冬の餌になるので)餌用の砂糖を買わんで済むんで、それだけで助かるよ。蜂蜜を採って後は知らんという養蜂家も多いけど、蜂蜜採った後が大事だと言うけど、それが分からん人が多いな。養蜂はもう子どもらに渡したから、今は、サツマイモを10トンぐらい収穫するし、里芋も2トンは穫るな。1週間に1回は北陸まで行って船に乗って釣りをしよるから元気にしとられるんかな」

直販店内で養蜂を始めた頃を振り返る先代の鈴木政夫さん

小学生の頃、踏んだり蹴ったりの日曜日

 鈴木養蜂園の直販店は、古風でありながらどこか洒落た雰囲気を漂わせている。有限会社鈴木養蜂園は現在、兄の鈴木理一郎さん(49)が代表を務め、弟の良近さん(47)が取締役、良近さんの妻真由美さん(49)が販売担当として運営している。真由美さんは1級建築士の資格を持ち、以前、良近さん夫妻は木造の店舗や住宅などを請ける建築会社に勤めていた。その経験を活かして良近さんが「実家の農作業場だった所を店舗に改装した」のだ。

 由美子さんが「味見してみますか」と、鈴木養蜂園で採蜜した蜂蜜を揃えてくれる。1つ1つを1口ずつ味わってみると、普段気付かない微妙な違いを感じることができた。

 菜の花の蜂蜜は、これぞ蜂蜜というような馴染みの香りと味。温州と夏ミカンが混ざったみかん蜜はミントような香りで、さっぱり感がある。先入観なのか酸味がある気がする。クロガネモチの蜜は土の匂い。ソメイヨシノの桜蜜は、舌に染み込んでいくように口の中で消えた。みかんとクロガネモチが混ざった百花蜜はクロガネモチの個性が勝っている香りだ。

 「家族に病弱な方がおられて『食べ物には気を付けています』とおっしゃるお客様が来てくださいますね」と真由美さん。自分たちの手で採った蜂蜜だけを販売する姿勢に寄せられるお客さんからの信頼が嬉しそうだ。

 理一郎さんの子どもの頃の思い出だ。「小学生の頃に日曜日には、あれやれこれやれと手伝わされて、おまけに蜂に刺されて、暗くなってもやってて、踏んだり蹴ったりの日曜日だった。そんな記憶がありますね」。すると良近さんが「蚊帳を張って採蜜したのを思い出した」と、突然声に出す。再び、理一郎さんだ。「レンゲ畑ばっかりだったので、蜂を持っていけば(蜜が)採れた良い時代でしたよね。今は現場採蜜をしていないので蚊帳を張って採蜜はありませんけどね」。養蜂に良い印象がなかった理一郎さんは、生物産業学を大学で学び水産業の会社に就職し、良近さんは大学の工学部で建築を学んだのだそうだ。

巣門の前に設置した捕獲器に入ったスズメバチを取り出す。池の上蜂場にて

切通蜂場の隅にカラスザンショウの大きな木。花の蜜が越冬の餌となる

分封した群が家の裏の大きなトチノキの高い枝に自然の巣を作った

巣箱の前でスズメバチに襲われたのか、花粉球を付けたまま蜜蜂が死んでいた

羽音を聞いて養蜂家の顔になる

 「今の時期はスズメバチが蜜蜂を襲ってきますので毎日見回りに行きますね。スズメバチを見つけたら退治してから移動しますので2、3時間は掛かります。今は10か所の養蜂場に巣箱を置いています。うちは渥美半島の中だけの定地養蜂なので……。半島北の三河湾、南の太平洋で植生が変わりますので、基本的に夏は半島の北へ冬は南ですね」

 理一郎さんのスズメバチ来襲を見回る蜂場巡りに同行させてもらうことになった。最初は稲葉蜂場だ。「渥美半島は農業が盛んで大きな企業もあって、経済的に恵まれている地域なんです。観光資源に市が花を植えてくれるので、蜜源にもなりますね」。軽トラックの助手席で理一郎さんの話を聞きながらの移動だ。

 2番目は吉胡(よしご)蜂場。「ここの蜂場を出た所は観光スポットになっていて、春は菜の花、夏はヒマワリと市が植えてくれるので、恵まれた蜂場なんです」と中に入る。すると「ここは少しオオスズメバチに少しやられていますね」と理一郎さんが、粘着シートを手に羽音のする方向へずんずん歩いていく。巣門の前に捕獲器を取り付けてはいるが必ずしも充分ではないため、蜂場を巡回する中でスズメバチを見つけたら、粘着シートか捕虫網で捕らえ殺しておかなければならないのだ。

 「オオスズメバチは仲間で襲ってきて群れを全滅させますからね」と、理一郎さんは羽音を聞いて養蜂家の顔になっている。捕獲器の前で蜜蜂を捕らえようとしていたオオスズメバチを粘着シートで押さえるように捕らえる。粘着シートに貼り付けられたスズメバチが身動きがとれずもがいている。そのシートを巣箱の上に置いておくと、もがくスズメバチが匂いを出すようで仲間のスズメバチが匂いに誘われ寄って来て粘着シートに捕らえられるのだ。

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