2021年(令和3年8月) 55号

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俺も長くない、跡取りがないから

 一方、元矢さんは高校を卒業してイチゴ農家の父親を手伝っている時、交配用の蜜蜂は埼玉県の養蜂業者から購入していた。通常だと交配用の蜜蜂は世話をしないで死なせてしまうのだが、「自分たちで飼い始めたら良いよね」と父親と話し合って、本を読んで勉強もして、ハウスに必要なくらいの数の蜜蜂は飼っていた。

 太史さんは20歳で養蜂場の研修が終わり、太田養蜂場から蜜蜂10群をもらって浦河郡浦河町で養蜂をやろうとしたが、1年目は巣箱を置く養蜂場を見付けられずに、山の深い所に置いたら熊が出て巣箱を倒されてしまう。そんな時に太史さんは、日高地区養蜂組合の総会で今は亡き養蜂家の打田正男さんと出会い、「俺も長くない、跡取りがいないから」と声を掛けてもらって、打田さんの蜂場を手伝うことになるのだ。その時に太史さんが「一緒にやろう」と、元矢さんを誘った。元矢さんが打田さんを振り返る。「80歳近かったんで、労働力が欲しかったんでしょうね。面白い人でしたよ。独特の世界観があって、80歳越えても大きな高級乗用車に乗っていて、料理にもこだわっていましたね」。「僕にとっても丁度良いタイミングでした。その頃、プロのミュージシャンになりたくて、馬頭琴を演奏していて、CDを作ってラジオにも出たことがありましたから。モンゴルへ行こうかと迷っている時期でしたね」。

 打田さんの蜂場は北海道の他に岐阜と青森にもあって、太史さんと元矢さんは研修という形で打田さんの蜂場で働くことになる。「養蜂の大きな流れは打田さんの指示でやるのですが、養蜂の基礎は太史から教えてもらったですね」と、元矢さん。

 その後、名実共に太史さんが北海道の打田さんの蜂場を小笹養蜂園として受け継ぎ、1年ほど後に元矢さんも自らの住所を岐阜県へ移すことで、岐阜県安八郡神戸(ごうど)町の蜂場を神戸養蜂場として打田さんから受け継ぐことになる。

 「自分たちにサラリーマンは出来ないなと、ずっとお互い思っていました」と、太史さん。2人とも同じ高校へ進学したが、学校ではお互いに話をすることはなかったそうだ。「2人並んでみてとか、双子ってお互いに考えていることが分かるのって、聞かれたりするのは嫌でしたですね。これまで14年間ほど養蜂をやってきて、こういう動きをしたら、こういう良い蜂になるんだと、今、見えかけています」と、元矢さんが自信を覗かせる。

 この日の夕方からは、翌日予定している採蜜の準備として、懇意にしている「株式会社やまかのうさん」の水圧洗浄機を借りて、遠心分離機やトラックを洗って終了だった。

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