2025年(令和7年12月) .  88号

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一升瓶で蜂蜜を売っていました

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 「僕は、庭師になるのが夢だったので南部農林高校に入学したんです。その頃は先生から蜂蜜の注文を受けて、職員室で販売していましたよ。高校一年生の時にはウズラを飼い始めて卵を配達していたこともありました。ウズラで高校の農業祭で賞を貰いましたよ。糞を片付けるのが大変でした、毎日ですからね。南部農林高校を卒業して沖縄植物園に一年間勤めてから、沖縄書籍輸入組合で週刊誌を書店に配本する仕事をすることになって……。あの頃はまだ本土復帰前だから円をドルに変換しないとならないし、配本数によって単価が変わるもんだから計算が大変。電卓はない頃ですから、そろばんですよ。そこで一年と一か月くらい働いて、お金を貯めて運転免許証を取って、どうしても庭師になるための勉強をしようと東京へ出て行ったんです。勉強に行った貸し植木屋で働き始めて一年余経った頃ですかね。妹から手紙が来て、父がめっきり弱ったと……。長男の宿命といいますかね、それで沖縄に帰ったんですよね。ところが、うちの親父はとても元気なんですよ。それで2年くらいは友だちの農業と養豚を手伝って、その後に、本格的に養蜂を始めたんです。

その頃はもう蜂蜜も売れる時代になっていましたから、親父の時代の設備は旧式だったもんで、家を増築して瓶洗い場やお店を造って近代化したんです。あの頃は一升瓶で蜂蜜を売っていましたから、瓶を洗うのが大変。一升瓶を200本買ってきて、洗って滅菌して乾燥して、蜂蜜はほとんど配達ですから。沖縄産はクセがあった、色、匂いもあった。沖縄の蜂蜜は冬場に結晶するもんですから、ハンガリーから輸入した蜂蜜も売っていたんです。ハンガリー産のアカシア蜜は結晶しないので売りやすかったですよ。ハンガリー産はクセがなくて何にでも使えたんです。僕が23歳の時に新垣養蜂園の創業届けを、僕の名前で税務署に提出したんです。経理は親父がやってくれていましたけどね。1975年11月23日に私が28歳で結婚してからは、うちの妻が経理を受け持ちました。それから間もなく、今から48年前になるのかな、沖縄県主催の第一回産業祭りというのが開催されて、3日間だったけど用意した蜂蜜とローヤルゼリーを2日間で売り切ったんですよ。品物を渡してお金を受け取っての繰り返し、お客さんの顔を見る暇もないくらいだったです。4回目くらいから他にも蜂屋が出てきて、それからはあれほどは売れなくなってね」

 と、ここまで話してから突然、勉さんが「ああ、もうそんなに経ったんですか」と呟く。「忙しいというのは、心を亡くすと書くからね。去年は創業70周年記念をやったからね」

 過ぎし歳月に突然気付き、唖然とするばかりの勉さんだ。

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