2015年(平成27年12月)9号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

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福岡県朝倉市板屋・甘木養蜂場

蜜蜂、天候、気温の三拍子揃った年なんです

豊嶋家の自宅玄関に、黒々とした墨字で一家全員の姓名を認(したた)めた表札がずらりと12枚並んでいる。右端のひと際大きい表札に、甘木養蜂場創業者豊嶋貞夫の名が掲げられ、家長の存在感を示している。

福岡県朝倉市板屋の甘木養蜂場では、11月上旬になるとイチゴの花粉媒介(ポリネーション)のために蜜蜂を貸し出すのと同時進行で、蜜蜂の越冬準備が始まっていた。蜜蜂の世話を主にしているのは、甘木養蜂場3代目になる豊嶋崇敏(とよしま たかとし)さん(39)だ。

|「養蜂を始めて9年目なんですよ。始めた年が一番良かったですね。蜜蜂の状態が良いし、天候も良いし、気温も良い、三拍子揃った年なんです。だから、採蜜回数も普段より多くて、5回も6回も採ったですもんね。平年の5割増しで蜜が採れました。最後ん方は、もうきついから止めよと言うくらいやったですよ」

話を横で聞いていた母親の禎子(ていこ)さん(63)が、「700缶ぐらい採っとるよ」とその年の鮮明な印象を語り、父親の彪(たけき)さん(71)も「結局、蜜源が良かったということです。花付きが良かったんですね」と語る。息子の養蜂家としてのデビューと豊作が重なった年は、養蜂家一家として、大きな節目の年として記憶されているのだ。

そんな恵まれた年に養蜂家としてのスタートを切った崇敏さんは、幸運の星の下に生まれているのだろう。禎子さんが「こりゃいいなと、思ったみたいですよ」と、崇敏さんの方を見て笑った。

愛犬ジロウ。
「迷い込んできた野良犬です」と、禎子さん

豊嶋家の自宅玄関。一家全員の表札が並ぶ

甘木養蜂場創業者の豊嶋貞夫さん(右)と妻の久子さん

洋蜂を5箱買いました。それが事の始まりでした

甘木養蜂場のすぐ隣には豊嶋養蜂園がある。同じ豊嶋を名乗りながら、隣同士で養蜂業を行っているには、何か深い訳があるのかも知れない。そこで、甘木養蜂場の創業者、豊嶋貞夫(とよしま さだお)さん(89)に甘木養蜂場の歴史を聞かせてもらうことになった。貞夫さんは、すでに現役を退かれているが、耳が少し遠い他は矍鑠(かくしゃく)とされ、昔の記憶も鮮明だ。

|「蜂を飼い始めたちゅうとは、先代からですけん。屋敷が3反あまりあるからですな。それと、この地帯はですね、ハゼの地帯ですよ。大きなハゼの木がうちにも残っちょるですが、ハゼばっかりの地帯が1キロにわたってあったわけですな。私たちが青年時代は、そういう風な環境のとこですわ。うちは、和蜂ですね、終戦頃までは和蜂が30箱ぐらいおったですよ。日本の純粋和蜂ですね。周辺は、ほとんどが畑で、菜種を作ってですね、無尽蔵ち言えば何ですけども全域に蜜源があったわけですね」

|「それでですな、私が兵から帰って来たらですな、同じ朝倉市に藤井養蜂ちご存じですか。その藤井さんちゅうのが、ま、日本でも大きい養蜂場ですが、和蜂がおるなら、洋蜂を飼わんかち、えらい勧むるしですな。昭和20年だったと思いますが、洋蜂を5箱買いました。買うたのは藤井さんからじゃなかったばってんですな。代金がですな、3万円ぐらい出しましたばい。砂糖がですな、一斤150円ぐらいはしよる時でしたもん。それが事の始まりでした」

あん時ゃ70万円ぐらい損したですもんな

|「その当時、3町ちょっと水田を作って、私が親父の加勢をしよりましたからな、雄次郎ちゅう弟がおるもんですから、農家の方は私が主体で、弟を蜂専門に掛からしたわけですな。あの頃は、1群を5箱に割り出したもんです。それで、瞬く間に120から130箱ぐらいになしてですな。考えちみれば、あの当時は鹿児島の知覧まで移動するごつなっちょったです。開聞岳の根元に置きよったですが。そこで鳥取県の米子の人と仲良うなってですな。その人は、鹿児島だけじゃ早すぎるもんだから、福岡の菜種を採った後で鳥取さへ帰りよったです。その人が、なら、うちん所(とこ)ん来んかちゅうことになって、鳥取さへ移動始めたわけですな。こんだ、北海道の連中とも付き合いだして、北海道へ来んかちゅうことになって、兄弟2人おりますもんだから、鳥取の採蜜が終わってからですな、弟を北海道の天塩郡ちゅう所まで行かしよったです。100箱ちょっとは鳥取に残して、私が管理しよったですもん。やっぱ、あの頃は移動が大変じゃったですな。蜂はトラックで運ぶけど、私たちはダットサンで、トラックの後ろに付いて走らないかんもんですからな。福岡から鳥取までは舗装じゃないもんですからね。それに、ある程度暗くならんことにゃ蜂が巣箱に帰って来んので、蜂をトラックに積められんもんですから、福岡の出発が夜の11時や12時になりますな。それで計算して、鳥取で降ろすとが朝10時前には終(しま)えちょくようにですな。蜂が蒸殺(じょうさつ)するから、やっぱかなり車を飛ばせたですな。蜂を殺してしまえば元も子もないですから、えらい気を遣いました」

|「弟が北海道に行き始めた頃、私ゃ、青森まで行きました。野辺地(のへじ)ちゅうとこは原野でかいな、菜種しか作られん所ですもんな。ここは、やませ(冷たく湿った東よりの風)が来たらですな、一週間ぐらい仕事にならんとですよ。それで1年で止めましたたい。あん時ゃ70万円ぐらい損したですもんな、儲かるはずがですな。結局、移動の経費がですね、鳥取で採った蜂蜜は終えてしまって……。だいたい2、3升どん採ったっちゃ計算に合わんもんじゃかい。ちょうどそん頃でしたかな、蜂飼いの方は弟に任せて、昭和40年に弟は分家したわけです。私ゃ農業の方があるからですよ。弟が昭和25年に農学校を卒業してから私が40歳になるまで、一緒に蜂飼いと米作りをやったわけでした」

儲かった年は全部水田を買うたわけですから

|「そっで後はもう、鳥取から島根あたりが中心になりました。和歌山、大阪のみかん蜜を採りにも行きましたな。でも、それから後は自然と、門司へんから八幡周辺の山に置き始めたわけです。雑蜜(百花蜜)を採り始めたわけです。それの方がむしろ安定性があるからですな。この年は儲かったいう年もありますよ。儲かった年は全部水田を買うたわけですから。水田1反に350万円ぐらい出してきたもんですからな。今は、50万円から60万円ぐらいですけど、うちで買うた時の6分の1ぐらいになっちゃおらんですかな。それに投資したもんだかいね、やり損なってですな。親父たちから、やっぱ土地を持っちょかないかんち言われよったし、土地だけ持っちょきゃ発展性があると思いよったですけど、時代が違うですもんね」

 

松延の養蜂場で、燻煙係を担当した崇敏さん

有効期限の過ぎたダニ駆除剤を
巣箱から引き抜く彪さん(中央)

松延の養蜂場で作業をする禎子さん

何をするかは蜂自体が教ゆるですね

 「雑蜜を採集するのを主体に、家内の久子(88)と2人でやりよったですが、息子たちが(養蜂を)するごつなって、孫まじしっかりやってはるけん、どうにかよございますと。水田の農業なら、10町作ってもですね、やっていかれん時代ですからですな。蜂飼い始めちょって良かったと思うですよ。蜜蜂というのはですね、だいたい、今ごろ巣を増やさないといけんとか、その季節の移り変わりによって、何をするかは蜂自体が教ゆるですね。蜂飼いの基礎がある程度分かっちょればですね。うちの孫どんが私が教えたことないですが、付いてしよればすぐ覚えて、私より技術を持っちょるです。そりゃ我が努力次第で、蜂が教えてくるるですな。やっぱ人間の性格が箱の中にも現れますからね。100パーセント蜂見れば分かりますな。生き物扱いはそんなもんですよ。また、管理のぴしゃっとした蜂じゃないと蜜も採れんですもん。だいたい蜜採るだけに一生懸命になっとっちゃですな。蜂が管理できとらな蜜も採れん。やっぱ生き物は日常気を付けて飼わないかんですな」

巣箱に彪さんが考案したスズメバチ捕獲器が
付けてある

ダニ駆除剤の撤去と越冬準備を終えた巣箱の
重さを確認する

こげん入るもんじゃろかと

思いよったですもん

|「近ごろは、私んとこは関門周辺の蜜源が主体ですな。ハゼが多かですけど、雑蜜ですな。あそこは伐採せんからですね。環境的に50年せんことにゃ絶対伐採せんですもんね。今から大木になるばっかりですよ。だから、あそこの蜜源はもう絶対減らんですね、増ゆる一方です。百花蜜はクセがないからいいですよ。それと、ここ近辺にレンゲを蒔きますからね。今はもう、蜜源は自分で作らにゃ、レンゲの場合はですな。甘木養蜂場70年の歴史で一番の思い出、それは島根の安来ですな。あそこ辺りで蜜の採れよったのは最高ですな。そりゃもう巣を上げち(採蜜するために遠心分離器まで)持って行くのがやっとちゅうくらい入りよりましたですもん。こげん入るもんじゃろかと思いよったですもん。最初に安来に蜂を持って行った時、(蜜蜂一群で)8升入ったですもん。もう、上り坂んとこやら動かしきらんごとありました。そういう大豊作の年がありましたな。あの頃、弟は、一年で資産作りましたもん。ま、そういう年しゃ何十年に一回でしょうな。お蔭でですな、養蜂を始めちょったけん良かったですたい。昔ながら、米作りをしよったらどうもこうもならん。もう、そろそろ豊作の年が巡って来(こ)な、いけんですな」

自宅裏の養蜂場で巣箱の入れ替えをする崇敏さん

甘木養蜂場で使う巣箱は全て彪さんの手造りだ

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