2014年(平成26年)8月・創刊号

発行所:株式会社 山田養蜂場  http://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

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北海道深川市多度志 永田養蜂場

木立の中の養蜂場で巣板を点検する板垣さん(左)と菊地さん

林道奥の養蜂場では、午前10時過ぎに採蜜を終えた。続いて移動した「兵前」と呼ぶ木立に囲まれた養蜂場は、養蜂箱が23箱で、こぢんまりとしている。

美穂さんはどこから採ってきたのか、大きなフキの葉を遠心分離器の横に広げて敷いた。蜜蓋を削った巣板を、一時的に置く下敷きだ。これなら多少蜂蜜がこぼれても後始末が簡単で、そのまま自然に返すことができる。長年養蜂をやってきた彼女の知恵というものだ。

 

蜂蜜を濾過器に運んでいた龍正さんが、蜂蜜の色合いを見ながら「ここもアザミだね」と、私に言う。確かにここの周りにも、あのうなだれたような紫色のチシマアザミが咲いている。龍正さんの役割は、蜂蜜の品質を確かめることと、蜜を採り終わった巣板を整備して、元の巣箱に戻してやることだ。巣板のでこぼこを包丁で丁寧に削り取り、表面を平らにしている。養蜂箱に戻した巣板の間隔を広げるためだ。巣板の表面を削る時、なぜか幼虫の居る巣穴の蓋も削り取っている。

「これは男蜂。男蜂は、女王蜂と交尾するためだけに生まれてきて、集団の中で居候をさせてもらっている存在なんですよ。交尾は空中でするんです。交尾できた男蜂は死んでしまうし、交尾できなかった男蜂は巣に戻って居候。極道蜂なんです。越冬するための食料(蜜)が無くなってきたら、男蜂は巣から追い出されて、女王蜂と働き蜂だけが巣箱の中で冬を越すことになるんです。男蜂は結局死んでしまうんですね。一方の女王蜂は、一度交尾すると、4年でも5年でも、働き蜂と男蜂の卵を産み続けることができるんです。女王蜂は、一日に2000個の卵を産み付けます。それが有精卵なら、卵は同じでも、働き蜂になったり、ローヤルゼリーの効果で女王蜂になったり。無精卵は男蜂になるけど、全体の一割くらいかな。男蜂の幼虫を切っとかないと、数が増えすぎて分封する状態になってくるから」

木漏れ日の中で仕事をしていた菊地さんが、一輪車に載せた巣箱を養蜂箱の間に置いていると、「巣箱はもっと後ろに置いた方が良いよ」と、板垣さんが注意した。

「蜜を採りに出ていた蜜蜂が巣箱に帰ってきた時、同じような箱が近くに置いてあったり、巣箱の位置が変わっていたりすると、蜜蜂は迷って、入り口でうろうろするんです。最終的には匂いで判断して自分の巣箱に帰って行くけど、もし間違って他の巣箱に行けば、入り口にいる門番の蜜蜂に殺されてしまうことになりますから」

 

蜜蜂の受難は多い。最大の天敵はスズメバチ。中でもオオスズメバチは、集団で蜜蜂の巣を襲い、巣箱の入り口で門番の蜜蜂をかみ殺して巣箱の中に入り、幼虫を喰い、巣箱の蜜蜂を全滅させてしまうのだ。蜜蜂の恵みをいただく人間は、巣箱を襲ってくるスズメバチを一匹一匹捕らえる他に、蜜蜂を守ってやる方法はない。

 

人為的な受難で、龍正さんが最も心配しているのは、ネオニコチノイド系の農薬だ。

「農薬に臭いが無くなったというのが一番の問題なんです。臭いをなくしたのは害虫に気付かせないためだけど、蜜蜂も気付かずに近づいて行ってしまうんですよ。今、ラジコンヘリで農薬を撒くでしょう。あれは、濃度を30倍くらいに薄めなきゃいかんそうですね。それくらい強い農薬なんですよ。7月27日の北海道新聞にも、蜜蜂が大量死した記事が載ってましたけど、農薬を散布した時に、農薬が体に付いた状態で巣箱に戻り、仲間を大量死させたという内容で、ネオニコチノイド系農薬だけが原因ということではなかったですけどね」

 

農薬の成分が0.01ppmでも検出されたら、蜂蜜を出荷できない。蜂蜜は、採った日ごとに出荷先へサンプルを送り、そこで農薬の検査を受けることになっている。

「蜂場近くの水田にドロオイ虫が出たから、どうしても農薬散布せないかんと言うのを止めることはできんです。明日やると言っても、こっちはまだ蜂蜜を絞ってるのに」

採蜜は、朝早くが原則だ。

「働き蜂が、早朝から蜜を採りに出かけますよね。その蜂が帰ってきて、採ったばかりの糖度の低い蜜を加える前に、前日までの糖度が高い蜜を採取しなければならないんです。蜜蜂が運んできたばかりの蜜は水分が多すぎて、長く置くと発酵しやすくなりますから。蜂蜜の糖度は78度以上になっているのですよ。78度以上あると、2、3年置いても何ともないし、缶に空気を入れなかったら10年でも持ちますよ」

採蜜の作業は、2か所廻っても昼過ぎには終わるのに、どうして早朝5時に多度志の家を出発する必要があったのか。龍正さんの説明を聞いて、謎が解けた。

 

龍正さんの自宅は、九州の宮崎県高原町だ。

「戦争が終わった昭和24年ごろには、親父は副業みたいに養蜂をやっとったですね。砂糖がまだ配給の頃ですよ。養蜂には定飼(ていし)と転飼(てんし)があって、親父が定飼の地元役員をしとったもんだから、転飼で富山県から宮崎に来られた竹内さんという方を世話したんですよ。私が高校を卒業した昭和32年は、景気が悪くて就職が良くなかったんでね。家(うち)に蜂が居たこともあって、富山から来られた竹内さんの蜂を手伝っているうちに、やってみるかという感じになって」

 

「翌年には、竹内さんの弟子として、富山へ付いて行ったんです。家の巣箱20箱と竹内さんの巣箱20箱を貨車に積んで。当時は、家畜車というのがあったんです。蜂は小家畜に入っとりますから。ニワトリと一緒です。蒸気機関車なんで、着いた時に顔は真っ黒ですよ。見習いながら、産卵の様子や幼虫の世話、蜂はどれくらい生きるとかを、自然と解っていく訳です。一人で行くと言ったけど、まだ一年目の弟子だったから親父も一緒にですね。当時は、富山でレンゲ蜜が採れよったから。富山には5年くらい行ったでしょうね。その頃に、竹内さんが家庭の事情で養蜂を止めるから、後は任すと挨拶に来られてですね。それからは一人ですよ。富山にレンゲが無くなって、岐阜県にも行きました。結婚が昭和43年ですから、お母さん(美穂さん)も3年くらいは岐阜に行ったな」

 

岐阜県でもレンゲ蜜が採れなくなった後は、転飼先の北海道へ直行するようにしている。20年ほど前から、北海道で花粉交配のために蜜蜂を貸し出す仕事が増えたためだ。5月に宮崎県の自宅を出発して養蜂箱を移動させる時には、トラックのチャーター便だ。

 

「昼間は蜜蜂が蜜を採りに出ているもんだから、夕方にならないと箱を閉められないんですよ。家畜専用のトラックですね。蜜蜂を知らない運送屋に頼んだら、わやになりますよ。以前、車が故障したことがあって、90箱の蜜蜂が死んだんですよ」

 

11月になると、こんどは北海道から宮崎へ移動し、蜜蜂を越冬させるための作業に入るのだ。「10月半ば過ぎたら130箱ほどの養蜂箱を一か所に集めて、宮崎へ送り出す準備に掛かります。以前は、300箱くらいあったんだよな。農薬にやられたりして蜂の寿命が短くなって、箱が少なくなってますけど」

 

夏は、涼しい北海道で活発に働く蜜蜂と共に過ごし、冬は、蜜蜂の越冬を世話しながら暖かい宮崎で暮らす。蜜蜂に寄り添い、蜜蜂の快適を優先する龍正さんの養蜂農家としての暮らしは、57年目になる。

蜜蓋を削り取る永田美穂さん(右)と遠心分離器のスイッチを入れる龍正さん

この日採った蜂蜜を詰めた一斗缶が並ぶ

転飼先の自宅前で永田さん夫妻

巣板を置く下敷きにフキの葉を敷く

チシマアザミの蜜を吸う蜜蜂

採蜜の時は、昼食も木立の中で立ったまま

蜜蜂の天敵スズメバチを捕らえた

燻煙器で蜜蜂をおとなしくさせて作業にかかる

この日の採蜜は終わった。道具を積み込んで帰路へ

現在の転飼先を決めるきっかけとなった友人が遊びに来た

一日の仕事を終えて、転飼先の自宅で寛ぐ龍正さん

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