2018年(平成30年3月) 4号

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指で摘まんだ瞬間、掌にキンカンが収まっている

 防風林に囲まれ、すっぽりと鳥害避けの漁網に覆われたキンカン畑の中で、脚立に上り、木の枝に足を掛け、浜岡佐和子(はまおか さわこ)さん(80)がキンカンを収穫している。「もう、ここだけになってしまいました。50本。多い時には150本ほどもありましたけど」。

 佐和子さんは、ハサミを使わず手で捥(も)ぎ取るようにキンカンを収穫していく。指で摘まんだ瞬間、掌にキンカンが収まっている速さで、手品を見ているようだ。

 「身軽やさかいね。小さい時から。うち(私)独りで穫るんでね、ハサミで穫りよったら間に合わんのよ。捻って自分の方に引いて穫るんよ。高いとこやったら両手でも穫るからね。ハサミだと、どうしても遅いでね」

 キンカンの収穫は、JA紀南との約束で1月に始まり3月末までに穫り終えなければならない。時は、すでに3月中旬。それまでにも色付きの良い実から順々に収穫しながら、50本の木を何度も巡っていた筈なのに、木にはまだ色付いたキンカンが鈴なりだ。佐和子さんは焦っている。

 佐和子さんが暮らすのは、本州最南端の町・和歌山県東牟婁郡串本町の紀伊大島樫野(かしの)地区である。平成11年9月に開通した「くしもと大橋」によって、現在は陸続きになっている紀伊大島は、大島地区と須江地区、それに樫野地区の3つの集落に分かれ、キンカンの栽培は約100年前に樫野地区で始まった。現在、紀伊大島のキンカン農家は10軒余り、すべて樫野地区に集中している。

ヘタの周りまで完全に色が付いとるのが秀なんです

キンカン農家の東和歌子さんと畑で情報交換する時に笑顔を見せる佐和子さん

 私を案内してくれたJA紀南・営農指導員の田中大介さん(50)とちょうど佐和子さんの畑を訪ねていた同じJA紀南キンカン部会の農家・東和歌子(ひがし わかこ)さん(76)の3人で、情報交換をしている。

 「今年はほんまに穫れんかったね。これは自然やで、どこにも(苦情を)持って行くとこないで。ほんまに自然て恐ろしいわ」

 年明けから続いた異常低温は、本州最南端の紀伊大島でも柑橘類に大きな影響を与えたようだ。

 「それでも浜岡さんとこのキンカンはきれいやわ。うちのは消毒してないからよう、きたないからよう、恥ずかしいわ。消毒してない方がええ言うてくれる人もあるけど……」

 和歌子さんは、こう言いながら、目の前の木から色付きの良いキンカンを一つもぎ取って口に入れる。遠慮のない和歌子さんの仕草から、普段から親しく付き合っている二人であることが伝わる。

 「皮は柔いし甘いね。酸味もええね。あんた、うちの畑にも来てもろてもええけど、きたないキンカンやから恥ずかしいわ。明日の午後、来て」

 私にも声を掛けて和歌子さんが帰ると、再び、佐和子さんは脚立に乗って収穫に集中し始めた。「キンカンは上から熟してきます。上が早いです。よう色が付いてきれい」と、収穫の時期は遅れたが出来映えに佐和子さんは満足そうだ。

 「ヘタの周りが青いのは、いかんのです。優です。ヘタの周りまで完全に色が付いとるのが秀なんです。1月から3月までは、ほとんどキンカン(の収穫)に掛かっていますね。作るから(何が大切なのかが)やっぱり分かりますね。難しいのは黒点(病対策)ですね。黒点があったら、さっぱりですわ。キンカンは農協の指示で4回消毒します。肥料も農協の指示です。バランス良く、陽当たりのええように剪定せないかんね。立ち枝切って、横に伸ばさな。剪定はやっぱり良く考える人が上手ですね。私ら、自分で思うようにやってきましたから」

 佐和子さんは謙遜しているが、木は活き活きとして、実は大きく色付きも良い。

収穫した完熟キンカンを掌に載せて

 この日、キンカンの収穫を早めに切り上げた佐和子さんは「あんたにアスパラ見てほしいんや」と、自宅近くにある畑に営農指導員の田中さんを案内した。畑には、ヒョロヒョロとしたアスパラガスが数本伸びている。「もう出てきてるやん」。田中さんがその成長の早さに驚きの声を上げると、「出てきた、出てきた」と佐和子さんが嬉しそうに相づちを打つ。

 アスパラガスは、種を蒔いて3年後にようやく出荷できる作物だ。まだ1年目の佐和子さんのアスパラガスは、これから地下茎が生長し、収穫は2年後になる。

 この後、佐和子さんが収穫したキンカンを階級分けすると聞いて、自宅の作業場までお邪魔することにした。

 「コーヒーは柔らかい感じのコーヒーなんよ。カステラは息子がお土産にいつも持ってきてくれるんよ。うちも、夕べ仕事が終わったんは9時やった。夕方4時半ごろに家に帰ってから、コーヒー飲んでカステラ食べて一休みして、それから、選別器で階級分けします」

 私たちがコーヒーをいただいている間に、佐和子さんは離れの作業場で階級分けを始めていた。

 長辺が1メートル余りで短辺60センチほどの木枠の底板に、丸い穴が沢山開いている選別器。これで階級分けをするのだ。一番小さな穴の選別器を下にして、順に大きい穴の選別器を4枚重ね、その上から収穫してきたキンカンをゴロゴロっと入れる。一番上の大きな穴の選別器に残ったのが3Lだ。次の選別器からは2L、L、Mとなる。

 「3Lは少ないですよ。大きさの階級分けはうちでやりますけど、秀優良の等級分けは農協さんがやってくれますんでね。傷もんや青いのは加工用ですけど、それもM以上ないといかんのですよ」

 佐和子さんは、この夜も遅くまで階級分けの作業を続ける様子だ。作業をしている彼女の頭の上には、天井から300Wの照明用の電球がぶら下がっている。昼間は畑でキンカンの収穫に励み、夜は作業場で階級分けの作業が連日続くのだ。

夕べ仕事が終わったんは9時やった

この日、佐和子さんは休憩もなく午後2時まで

収穫を続けた

キンカンは上から先に熟してくるため

脚立に乗る作業が多くなる

漁網で覆ったキンカン畑に入る佐和子さん

収穫の朝、佐和子さんが一輪車を押して

キンカン畑にやって来た

真っ赤な新品のヘルメットを被って50ccの単車で畑に通う佐和子さん

作業場で収穫してきたキンカンのヘタを切る

「(樹齢は)70年になるんですかね。私が(嫁に)来た時は、私の背よりちょっと高かって、ようけ実が生ってましたよ。ここの土地にキンカンは合うみたいですね。キンカンは7月から10月まで花が咲きますからね。遅うに咲く花は止まりがいいんですよ。花が咲く時期に涼しくなって、雨も降りますからね。収穫は3月一杯。キンカンは木に残ってますけど、農協さんに出荷できるのは3月一杯までなんです」

 もう昼食の時間は過ぎているのに、休み時間もとらないで収穫を続ける佐和子さん。傍で写真を撮っていた私に、「どうぞ、(キンカンを)取って食べてくださいね。私、何でか、食べる気にならんのですよ」と、気遣いをしてくれる。遠くからトンビとウグイス、それに近くではカラスの鳴き声が聞こえている。

 「早よ穫らんといかんという気持ちがありますからね。自分がせんと減りませんやろ。50本やけど、全体で1200キロか1300キロは穫るから、1本から穫る量はだいたい30キロでないんですか。私らもね、今は忙しい時やからね。時期が過ぎて雨でも降ればね、キンカンの甘露煮でも作ってみよかという気持ちになりますけど。今は、収穫するのに手一杯ですわ」

 翌朝も佐和子さんのキンカン畑を訪ねた。彼女は真新しい赤いヘルメットを被って50ccの単車に跨がり毎朝畑にやって来る。

 「樫野のキンカンは100年て言われてますよ。うちのキンカンは『明和(みょうわ)』という品種です。キンカンは種類がありますんでね。このキンカンは美味しいけど、弱いです。良いものは何でも作りにくいですね。例年だと、6月25、6日に一番花が咲きます。それだと正月前には収穫できるんですけど、去年は2週間遅かった。早く収穫して早く剪定できれば、ええんですけど。自然には勝てませんから」

7月から10月まで花が咲きますから

樫野のキンカンは100年

掃除が行き届いた佐和子さん宅の倉庫に夕陽が当たる

佐和子さんのアスパラガス畑。2年後に出荷予定だ

お前にミカン触られたら、売るミカンないな

 佐和子さんが疲れ切った様子で、収穫にひと区切りつけたのは午後2時を過ぎていた。畑に置いてあるビール瓶のケースに腰掛けた彼女は、ほっとしたのか少し話を聞かせてくれた。

 「『お前のキンカン気色がええの』とかね、『お前のキンカン美しいのう』と言ってもらえると、嬉しいですね。頑張ろうってなります。私ね、日舞やってます。下手なんですよ。年に1回ね、12月にチャリティーでね、串本の文化センターへ行くんですよ。やっぱり楽しいですよ。三味(線)の音が掛かって(聞こえて)くると気持ちも明るくなるし、私ね、1メートル52(センチ)しかないんやで。でも、舞台に出ると大きい見えるんやと。夫婦で相舞(能などで、2人又は3人以上が一緒に同じ舞を舞うこと)したかったんですけどね、もうできません。(夫の宏治・こうじさんは)脳梗塞でね、今は車イスですから、もう10年になりますね。日舞は花柳流。せっかく習うのにね、ええ踊りを習う方がええです。覚えるんがね、近ごろ、ちょっと遅うなったね。趣味を持つことは、ええことですよね」

 「私、串本で生まれて樫野で育ったんです。まだ小さい時やけど、空を見たらパラパラッと黒いもんが降ってきてね。防空壕に逃げ込みよった。怖かったでぇ。家族は誰も戦争で死にはせんかったけど、兄弟7人あるのに、ここに残ってるのは私一人です。私らが育った時分は大変な時代やったですね。それでも食べ物の苦労は知らなかったですね。大方、80年前の話ですからね」

 佐和子さんの作業を見ていると、収穫にしても階級分けにしても、一つ一つが丁寧で正確だ。妥協がないと言っても良い。

「『お前にミカン触られたら、売るミカンないな』。主人がそう言ってました。何でもかまん(良い)という気になれんのです。つらいね。人間誰しも、他人のことはよう分かりますね。自分のことは棚に上げといて、他人(ひと)の気持ちを変える訳にはいきませんもん。自分の気持ちを良いように変えていかんといかん。そうすると楽ですよ」

 話はいつしか、現在日本の政治状況に及んだ。

 「私、政治好きですもん。新聞もよう読みます。もうちょっとね、親しみというかね……、そうあって欲しいね。私が都会におって男やったら、国会に出て、何で幾つもの派に分かれてしもて……。日本国民を幸せにすることを考えんかい、言うてやるんですけどね。10人10色というんか、10人10花ですわ」

 こう啖呵を切った佐和子さん、ひと呼吸置いて、現在の心境を話してくれた。

 「とにかく健康でいたいですわ。もう何も望んでないですわ。昔は年取ったらお金はいらんと言いよったでしょう。でも、今は、年取ったら施設に入らないかんでしょう。お金が要るんですよ。単車に乗れるうちは(キンカン)作りますよ」

 佐和子さんのこの気迫が、連日夜9時までの仕事が続こうが、独りででも何とか期日までに収穫を終えようとする意志を支えているのだ。

収穫してきたキンカンは一旦、お祖父さん(舅)が作った

諸蓋(もろぶた)に入れてから選別器に掛ける。

諸蓋の印は浜岡家の屋号

諸蓋に入れておいたキンカンを選別器に移す

作業場で階級分けをしていた佐和子さんが、

私を見送りに出てきてくれた

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