日本近代養蜂の父 青柳浩次郎
1階階段下で、前日に連合巣箱に移した巣板を内検する。蜜蜂は活発に巣門から出入りしていた
2月初旬、この日の午前中は、蜜蜂群を単箱から連合巣箱へ移す作業だった。連合巣箱は、これまで見たことのない巣箱の形式だ。
「連合巣箱は蜜蜂群が横並びになるんですよね。貯蜜室が真ん中になるんです。蜜蜂の習性として、真ん中に卵を産んで、その周りに花粉を溜めて、その上の周辺に蜜を溜めますよね。立体的に見た時にも、真ん中に卵を産んで、その周りに花粉を溜めて、その外に蜜を溜めますよね。真っ先に蜜が採れるのが連合巣箱なんですよ。1月の半ば頃から、もう蜜が溜まり始めますからね。連合巣箱は今年で3年目、去年は改良したNO.2型を使ったんです。蜜蜂には申し訳ないですけど、毎日が実験かなと思って……、自分で内検しながら、巣箱をこうしたいああしたいと、改良を考えているんです。冬になると連合巣箱は蜜蜂の勢いが落ちるのが早いので、冬は単箱に戻しているんです。冬、通常巣箱に戻すというのは衛生のためもあって、年に一回は必ず巣箱を入れ替えているんです」
良雄さんによると、連合巣箱は、日本近代養蜂の父と言われる青柳浩次郎が古くから研究していたそうだ。良雄さんが3群目の蜜蜂を購入した貝瀬収一さんが執筆しているWebサイト「日本蜜蜂の歴史」に詳しいので、9)日本近代養蜂の父青柳浩次郎の項から要約して引用させていただく。
蜜蜂群が餌の花粉団子を両脚に付けて活発に出入りする
1868(明治元)年に山梨県の士族の家に生まれた青柳浩次郎が、45歳の時に出版した「養蜂夜話」によると、分封して柿の木に集っている蜜蜂を近所の人が酒樽に捕ったのを譲り受けて飼ったのが浩次郎10歳の時。しかし、この蜜蜂群は、翌日には7割ほどが死に、その翌日には残った3割も逃げ出してしまい失敗する。それからしばらくして、9里(約36㎞)も離れた所の豪農が飼っていた蜜蜂1群を恵まれることになり、家僕に担ってもらって2日間を費やして持ち帰った。「其時の余の喜ひは如何程てあったか余なから知らぬ。是れか我の初めて蜜蜂を得た履歴てあります。」と記述している。
「養蜂夜話」の中で、養蜂に関心を持った理由を次のように書いている。「余と云う余は甚だ慾の深き人で何か資本なしで金の儲かる事があるだろうと常に考えて居ったか蜜蜂を飼ふは食料を與へずして良しきものなれば之を飼ふは甚だ面白からんと考へた」と。
青柳浩次郎は1883(明治16)年に東京農林学校(現東京大学農学部)の予科に入学し、1888(明治21)年から3年間は玉利喜造研究室の助手として養蜂に従事している。その後、小笠原島からイタリアン種を取り寄せて静岡県の養蜂場で繁殖に携わり、イタリアン種の蜜蜂を全国に普及させる活動にも取り組んでいる。青柳浩次郎が執筆した著書の題名を見ると1901(明治34)年までは、ほとんど農業に関する著書で、主には実家の仕事であった花樹栽培についてだが、1904(明治37)年に「養蜂全書」を出版してから後の27年間に出版された10冊は全て養蜂に関する著書だ。青柳が養蜂の奥深さにのめり込んでいった様子が窺える。青柳最後の出版となった1931(昭和6)年の著書が「革新増収連合養蜂法」なる題名だ。この著書こそ、良雄さんが3年前から採蜜時期に使い始めた連合巣箱の手引き書なのだと分かる。
巣門前に働き蜂がサシグサの花粉団子を両脚に付けて次々と戻っている
良雄さんが額面蜂児になった巣板を内検の記録として写真を撮る
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