2022年(令和4年4月) 61号

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暗黒の時代に養蜂を始めたんです

 光源寺毅寿さんと初めて出会ったのは、その前日の朝だ。山口市の養蜂家たちに種蜂を配達するため山口市に前泊していた毅寿さんと合流し、蜜蜂を配達する2トントラックに同乗させてもらうと、初対面にも拘わらず毅寿さんは熱を込めて語り始めた。

 「養蜂家は変わり者が多いですよ。そもそも痛いことに挑戦しているんだから、ま、変人ですよね。30年前というのは、養蜂家にとって暗黒の時代だったんです。それ以前は比較的良かったらしいんです。蜜が採れる花の多い場所へ皆が行きますよね。それで蜂場の取り合いで争い事になって養蜂振興法が1955(昭30)年に出来たんですよ。その後、1963(昭38)年に蜂蜜の輸入が自由化されて(安価な輸入蜂蜜に)養蜂業界は打撃を受けて、それ以降、暗黒の時代へ突入していくんですね。僕は、その暗黒の時代に養蜂を始めたんです。父親が養蜂をやっていたので、高校卒業する前に『大学へ行くんか、跡を継ぐんか』と聞かれて、自然な気持ちで一緒にやることになったんですけど、父親は『我慢してれば良いことがある。必ず良い時代が来る』と言ってましたね。父と一緒に仕事したのは5年間ぐらいかな。実は僕、父親の正士(まさし)が40歳の時に出来た末っ子なんです。それで、僕が一緒に養蜂を始めた時には父はもう高齢だったんです。上に兄が2人、姉が1人居るんですけど、長男とは年齢差が20歳以上あるんです。光源寺家で養蜂を始めたのは、父の兄にあたる本家の伯父で、戦時中に軍事物資として蜂蜜を軍に納めていたと聞きましたね。光源寺一派と言われて、2、30人の集団で養蜂をしていたらしいです。技術を大切にして、販売にも力を入れて、一時期は広島県の蜂蜜の80%を三次市の養蜂家が採っていると言われていたようです」

 「僕が養蜂を始めた頃、自分で言うのも恥ずかしいんですが、ギャンブルに溺れていて、蜂を買うお金さえ母親に頼むような散々な奴だったんです。その頃、周りの養蜂家は『あいつ家潰すぞ』と言っていたらしいです。それが、三重県の先輩養蜂家と出会って、その影響で目が覚めて、何のために仕事をしているかを考えるようになりましたね。始めた当時、ただ父がやっている仕事を助けたいという思いだけで、僕には養蜂をやる目標がなかったんだと思います。その先輩が自分の生活スタイルを全部見せてくれました。先輩が僕に問うんです。『お前、何のために仕事しているのか』。『食べるためでしょう』と答えると、『それは当たり前だろ。自分がどんな生活をしたいのかを考えると、今よりどんだけ仕事をしないといけんか、分かるよね』と言われて、自分の仕事の目標が見えてきました。最初は、先輩の生活スタイルに憧れて、徹底して真似をやりました。着る服までも同じにしましたね。先輩が格好良かった。先輩を真似するしか方法を思い付かなかったです。最初のうちは気付きませんでしたけど、その内、自分の仕事が多くの人から支えられて出来ていると思えるようになって……。父から『ひとには良くしろよ』と言われていた意味が理解できるようになりましたね。父が昔、世話をしていた人たちから、僕が今、支えてもらっていると思うんです。70歳近くなっていた父なのに、僕を高校へ行かせてくれて、必死で働いてくれていたのが今になって伝わってきましたね。本気になったのは35歳くらいからですもんね。10年ぐらい棒に振ってますよ」

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