農協に9年勤めておったんです
自宅横の作業場で重男さんと有祐さんがお茶の時間を過ごす
「息子が調べたら、僕の祖父(庄松・しょうまつ)が1935年に創業したらしいですね。祖父さんはコンニャクを作っとって、蜂もしている時に召集されて戦地へ行ったんで、一旦は養蜂は始末して、復員してから再び始めたらしいですね。長野へ行ったり、新潟へ行ったり、北海道の北の方へも行ったと言いよったな。始めた頃はオート三輪。地元では初めての車やったらしいです。僕の小さい頃は、国鉄のSLに乗って貨車の中にリンゴ箱置いて、人間も一緒に生活しながら蜂と移動しよったですね。小学3年になった時から飛行機に乗って北海道虻田郡留寿都村(あぶたぐん るすつむら)で仕事している親の元へも行ったな。ジュニアパイロットというので操縦席まで見せてもらって、何回も……」
工作場で重男さんが養蜂道具を自分で加工する
「川北養蜂園は僕が3代目になるんですけど、本当うろ覚えやで。父親とはほとんど話したことがなくて。そもそも僕はここの仕事をする気はなかったんで、トラックの運転手になりたかったんだけど、親父(歳裕・としひろ)から『頼むから農協に入ってくれ』と言われて、農協に9年勤めておったんですが、親父が体を壊してしまってな。母親から電話が掛かってきて、『農協なんとかならんのか』と……。蜂の仕事が一番忙しい時やったから急遽10日間ぐらい農協を休んで北海道へ行きましたね。妹も一緒にな。親父が『どうする』と言うので、その秋にどうしようかと考えてな……。それから1か月ほど後に、農協辞めて1987(昭62)年から養蜂園を継ぐことにしたんです。その時が、川北養蜂園のどん底の時代やった。地元農協の理事長が僕の16歳から付き合いのある親友で、農協には今でも色々なことで助けられとるんです。イチゴ交配関係は全て農協を通しておるんで、ものすご助かっとるんです。青森へ出発する時には10トンの大型トラックに巣箱を積むのに、農協倉庫の広場を貸してもろうたりしているんです」
「息子は東京の大学に行って、就職しておったんですけど、10年前に帰ってきて、一緒にやるようになったんです。私がいつ引退しようかと言うとるんですけど、あと10年やってくれと言われとります」
有祐さんが話に加わる。「東京で勤めとったんですけど、結婚することも決まっとったし、嫁も養蜂園を継ぐことを了解してくれとったので、東京で暮らすより三重で暮らす方がええなと思いました」。重男さんが嬉しそうだ。「規模を縮小しようと思いよった頃やけど、帰って来てくれたら、蜂屋を頑張ろうという気になりましたね」。
Supported by 山田養蜂場
Photography& Copyright:Akutagawa Jin
Design:Hagiwara Hironori
Proofreading:Hashiguchi Junichi
WebDesign:Pawanavi