2022年(令和4年5月) 62号

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椎ノ木城跡の虎口付近の木立も霧に包まれていた

阿坂城(白米城)跡は霧に覆われていて、本来は見晴らしの良い枡形山の山頂なのだが何も見ることができない

 「広場」蜂場で、カボチャの交配群として北海道茅部郡森町へ移動させる蜂群の合同作業をしていた川北有祐さんが、ポツリポツリと雨粒が落ちてきた時、背後に迫る新緑の山(枡形山・ますがたやま・312m)を見上げて話し始めた。

 「この山の頂に白米城(はくまいじょう)というお城があったんですよ。本当の城の名前は阿坂城(あざかじょう)というんですけど、明徳の和約が破られた応永22(1415)年の春に北畠満雅が阿坂城から挙兵した時、敵方幕府の総大将だった一色義貫が、城を包囲して水の補給路を断ったんですね。そのため北畠軍は水の確保に苦労したんだそうです。そこで敵を欺くために北畠軍は馬の背に白米を流して、いかにも城内の豊富な水で馬を洗っているかのように見せると、幕府軍は北畠軍が豊富な水を持っていることに驚いて、水断ち作戦を諦めて包囲網を解いたという伝説が残っているんです。それから阿坂城を白米城と呼ぶようになったらしいですね」

 祖父の川北養蜂園2代目歳裕さんに連れられて、何度も中国へ歴史探訪の旅をしたという歴史好きの有祐さんの説明だ。

 小雨が降り始め、蜂場での合同作業が昼前に突然終わってしまい、時間を持て余し途方に暮れていた私は、俄然興味が湧いた。「そうだ、白米城に登ってみよう」。

 たまたま蜂場近くの道角に「白米城登山口」の小さな看板を見付けた。蜂場の脇に車を置いて、登山道なる未舗装の坂道を登り始めたが、道の両側から草が被さるように生い茂り、ほとんど人の歩いた形跡がない。不安が募る。こんな筈はない。阿坂城は、1982年に「阿坂城跡 附 高城跡 枳城跡(からたちじょうあと)」として国の史跡に指定されている城跡だ。他に正式な登山道があるのではとスマホの地図で検索すると、蜂場から北にある北畠氏の菩提寺だった浄眼寺脇から登山道があり、駐車場もあるようだ。浄眼寺に到着すると駐車場に車が3台停めてある。降るというほどではないが、雨模様でも白米城を訪ねる人がいるようだ。

阿坂城(白米城)跡へ登る林道の傍でシロダモが小雨に濡れていた

 浄眼寺を左手に見て白米城登山道入口。ここにはしっかりした案内板が立っていて「白米城まで2.1㎞ 徒歩で約40分」とある。雨が気掛かりだが、まだ濡れるほどは降っていない。本降りになる前には下りて来られるだろう。快適に整備された小径だ。5分ほども林の中を登ると広い林道にぶつかった。その三差路を左に折れて明るい木立に囲まれた坂道を歩く。本降りになるのではと気が急くので、つい急ぎ足になってしまう。息が上がる。「急ぐな、急ぐな」と自らを戒めながら黙々と登っていると、上から70歳代の夫婦と思しき男女が、駆け足をするように下りて来た。この先の状況を尋ねたいと思ったが「こんにちは」の挨拶だけで、すれ違ってしまった。

 続いて、下から若い女性が跳ぶように登って来る。「元気ですね」と声を掛けると、「土砂降りになったら嫌やから」と一言残して、みるみる姿が小さくなった。

 少し標高の高い所まで来たのだろうか。木立が靄に包まれて煙っている。林道脇でシロダモの絹毛に覆われた若葉が霧雨に濡れている。登山道というには道幅は広く緩やかな上りだ。自然の中を散策するのに適した小径だ。白米城まで、あと何メートルと小さな標示板が立っていて、市民に親しまれている様子が伝わる。

 まもなくすると、先ほどの女性が再び跳ぶように下りて来た。「まだ、だいぶありますか」と声を掛ける。首を横に振って「そうですね」と曖昧な返事だ。続けて「鹿に遭えました」と嬉しそうに弾んだ声を出した。「(あなたも鹿に)遭えるとええですね。ええ写真撮ってください」と、カメラを持った私に声を返すと、鹿が跳ねるように下りて行った。

阿坂城(白米城)跡へ登る林道には靄が掛かっていた

 再び、独りになり黙々と登る。やがて人の手が加わったと思える地形が現れた。竪堀だ。城郭の一角に入ったのだ。さらに進むと「椎ノ木城」と「虎口(こぐち)」の標示板。虎口の急な小径を上ると丸くなった丘に幹周りが二抱えもありそうな椎の巨木の林が靄に霞んでいる。小径は右へ続くので、導かれるまま小山の尾根を進むと高さ6、7mの台状地形の頂上で行き止まりになっていた。複雑な地形に囲まれたこの地こそ、現在は草の原だが、小さな城郭があったと思われる。

 一旦、虎口の標示板があった台状地形の入口まで戻り、登ってきた小径を更に進むと椎ノ木城の台状地よりも高い台状地を回り込むようにして周りが急に開けた。獣道のような急坂の入口に「白米城」の標示板。この小径を上りきれば、目指す白米城だ。10mほどの急坂の小径を勢い付けて登る。視界が開け、広場に建つ大きな自然石が目に飛び込んできた。碑文が刻んである。恐らく白米城の謂れが彫ってあるのだろうが、解読できない。城郭跡の台地周りには樹木はなく、資料によると伊勢湾や三河の山も見通せるとあるが、この日は一面の靄で視界はない。しかし、もし、晴れた日に、この台状地形の端で馬の背に白米を流したならば、城を包囲していた地上の幕府軍を驚かせたであろうと思わせる展望の開けた地形だ。「白米城」伝説が生まれるのも納得である。難攻不落の城として名を轟かせた南郭の白米城と北郭の椎ノ木城は、後に織田信長の命を受けた木下藤吉郎(豊臣秀吉)に攻められ落城している。

 浄眼寺の駐車場に戻った頃は本降りになっていた。天気さえ良ければ、枡形山でモコモコと咲き始めたばかりのシイの花蜜を採りに来ている川北養蜂園の蜜蜂たちと出会えたかも知れないと思った。

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