2022年(令和4年7月)63号

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豪快な父と端正に生きた祖父

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 そこで、板塀に囲まれた広大な屋敷と圧倒される太さの大黒柱に象徴される屋敷で育った和良さんの原点ともいえる父親と祖父の思い出を聞かせてもらう。

 「うちの親父(安達武夫)は煙草をくわえて寝るようなヘビースモーカーだったね。網元だったから大漁祝いがしょっちゅうあるもんですから、私も小学生の時からコップ酒を飲まされていましたからね。親父は朝、寝床を出たら、真っ先に行くのが一升瓶というような酒飲みでした。毎日、朝、昼、晩酌、寝酒でしたからね。親父は豪快な親分肌の男でしたが、祖父(安達和太郎)はね、全然飲まない。端正な生き方の男で、おならをするのもトイレに行ってするような人でした。私はどちらかと言えば祖父に似ているでしょうね」

 「うちでは父親も祖父も英語を話せたのに、私はどうも腑甲斐ないですね。当初は、廻船問屋だったんですがだんだん事業を広げ、その一環で、明治時代にはシイラ漁やイサキ漁、アワビの潜水漁、サメ漁や大敷網の網元も手掛けていたんです。アワビは干しアワビに加工して香港へ輸出もしていましたね。船越集落の共同墓地の一角に、明治38年5月20日の日付が刻まれた『露兵二名之墓』が建っているんです。建立者は舟越鱪(シイラ)網元となっていますが、うちの祖父なんです。ちょうど日露戦争の時で、祖父のシイラ漁船が出漁するので美田湾を出ようとしていると、海上にロシア兵の死体が2体浮かんでいるのを発見したそうです。しかし、漁船は漁に行かなくては乗組員たちの生活が掛かっている。そこで祖父は『漁から帰ってくるまで、お前たちがそこに居るならば丁寧に供養してやろう』と心に決めて出漁したんだそうです。漁を終えて戻ってみれば、出漁した時のままロシア兵の死体が浮かんでいるのを発見して、自分の心と約束した通り漁船に拾い上げて、集落の共同墓地に埋葬したんだそうです。敵国の兵隊ですからね。祖父でなければ、あれだけ丁寧に葬ることはできなかったでしょう。立派だったと思いますね」

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