自信はなかったけど、やった。人生の分かれ目
倉敷芸術村と田中養蜂場の看板は長い歳月の経過を表す
「養蜂家として独立して、4つ下の故郷の女性と結婚したけど、いつもお金がなかったんじゃ。子どもが3歳くらいの時に試験を受けて川崎製鐵に入ったら、その時の月給が6万円じゃった。その月給がどんどん上がった。2年で倍くらいになったな。川鐵に入る前は蜂を持って東北、北海道へ行くコースなんで津山市に居ったんじゃけど、川鐵が(倉敷市)児島に来いというので、児島に移住して、この家の下の空き地に蜜蜂を置いて養蜂もしよったんですよ。それで、この家にさいさい(度々)遊びに来よったんですわな。この家、関川いうんですよ。関川の夫婦には子どもが無くてな『どっちかが先に逝けば一人になるから、私らと一緒に住んでくれ』と言われて、母屋の裏にひっつけてわしの家を造って、関川の夫婦と一緒に生活しよったんです。関川の夫婦には娘が居ったんですけど5歳の折に亡くしてな、その娘さんがうちの家内と同い年だったんで親近感があったんでしょうな。今では、私の下の息子が関川を継いで名乗っていきよりますけどな。土地は10町歩あるんですよ。川鐵に勤めもって(ながら)、蜜蜂を志布志に持って行ったこともあったな。夜勤があるから、すぐに帰らないかん。
備前焼の登り窯袋の内部
自分でトラックに巣箱を積んで持って行って、翌日には、汽車に乗って帰って来るような生活ですわ。川崎製鐵所には2年余り勤めとった。辞めた頃は、ケヤキや杉の自然木を使った木工芸がブームでな、茶箪笥作ったりテーブル作ったり、ものすごい儲かったんですよ。プロが仕事をしている工房に行って道具を見て、その道具を作ろうとした。3分の1で出来る。人並みいうのは売れんの、絶対に……。県の職員がようけ買うてくれた。ようけ儲けたよ、わしゃ。警察官にもようけ買うてもろて、警察官は転勤するもんじゃから県内に話が広がって……。景気の良い時代じゃったよ。その頃に自然木のテーブルを買うてくれた人が、今は、蜂蜜のお客さんになってくれてますよ。木工芸のブームが終わる頃に、川鐵から『記念品やるか』と言われて、やるか、やらんか、自信はなかったけど、やった。そこが人生の分かれ目。やって良かった。それから焼き物を素人なりに始めて、退職者に記念品作り。2年間で2000人、リストラで退職した。1個6000円の花生けを2000個、桐箱に入れて1200万円。あれで陶芸の機械を買うたりしての……。わしのお陰で家が建った陶芸家が2人居るの。でもの、作家は作家ぶって、良いものを作ろうとするけど、わしはいかに大量に作ろうとするから、ようけ注文が来よった。中国地方の企業野球大会の優勝チームに贈る記念品の花生けは今も、わしが作りよるんよ。年1500万円ぐらいは、ここで陶芸作品が売れよったよ。わしはみんな卸値で売りよった。安いから方々から買いに来るんですよ。でも、陶芸は、時代が終わった。昔は陶芸が盛んで、教室がいっぱいあったんですよ。最近は陶芸離れですな。備前焼に花を生ける習慣がなくなったんですな。昔からの侘び、寂びという精神が無くなったんですよ。振り返ってみれば、木工芸も備前焼もよう売れた。それに今は、蜂蜜がよう売れる。ええとこだけをつまんで食うたようなもんじゃ」
倉敷芸術村には備前焼の登り窯だけではなく製材所のような木工具も備えてあり巣箱は自作する
Supported by 山田養蜂場
Photography& Copyright:Akutagawa Jin
Design:Hagiwara Hironori
Proofreading:Hashiguchi Junichi
WebDesign:Pawanavi