名のごとく霧となって落ちるため滝壺がない霧ヶ滝
ハクウンボクの花
片道1時間半と聞いていた。岸田川に沿ってカーブを描きながら緩やかに上る県道103号線を運転している時には、何の不安もなかった。山に入る手前の集落で「上山高原ふるさと館」と看板の出ている建物の前で庭掃除をしている男性がいた。念のために確認しておこうと車を停め、声を掛けた。
「霧ヶ滝へ行きたいんですが、どこか車を停めておける場所はありますかね」。男性は箒を持つ手を止めて、私の方へ向き直って「入口に立派な駐車場があるよ。あんた霧ヶ滝へ行くのかね」と言いながら、私の姿を頭の先から足下までゆっくり見ている。「片道1時間半と聞いていますが、そんなもんですか」「そうだね。あんた長靴履いているから、大丈夫だろ」と、再び私の足下を見る。続けて「何度か沢を渡るからね」と小声で言うと、再び箒を使い始めた。その言葉が気にはなったが、彼の仕事を邪魔する訳にはいかない。
「霧ヶ滝渓谷入口駐車場」と看板の立つ大きな駐車場があった。他に車は一台も停まっていない。空は厚い雲に覆われているが、雨は降っていない。天気予報は午後から小雨となっている。駐車場の端に建っている東屋の木箱の中に大学ノートがあったので、入山時刻9時と名前を記入した。周辺地図に霧ヶ滝への道筋が描かれ滝まで2400メートルだ。周辺地図の看板には霧ヶ滝の奥に、目指すトチノキの原生林があると表示されている。最終目的地はトチノキの原生林だ。昨日、霧滝蜂場で採蜜をしている時、全身を真っ赤な花粉にまみれて戻って来る蜜蜂たちがいた。彼女たちが、どんな所で花蜜を採っているのか、見届けたいと思ったのが霧ヶ滝を目指す動機だ。採蜜作業が終わりに近づいた頃、「トチノキの花を見てみたいけど……」と淳也さんに相談したら、彼が霧ヶ滝の奥にトチノキの原生林があることを教えてくれたのだ。淳也さんは家族で霧ヶ滝へ行ったことがあるそうで「1時間半ですよ」と言う。「それなら今から行こう」と誘ってみたが、彼は首を縦に振らなかった。すでに時間も時間だった。「よし、それならば明日」と決めたのだ。健一さんが「トチノキなら車で5分ほど、この道(県道103号線)上ったら道端にあるよ」と勧めてくれたが、私は原生林にこだわった。
山道の上に見付けたセイヨウトチノキ
案内板に従って霧ヶ滝への山道を歩き始めた。すぐに岸田川の渓流を渡る頑丈な鉄製の手すりがある橋を渡り、登山者が踏みしめた小径を辿ると、苔むした小径に白い小さな花が一面に落ちていて美しい。滝への小径は意外と上り下りが激しく、角の尖った大小の石がゴロゴロと転がっていて歩きづらいこと甚だしい。すぐ右手を流れる霧ヶ滝渓流の水音を聞きながら歩くのだが、不安定な足下に気を取られて、ひんやりとした山の空気を楽しむ余裕がない。霧ヶ滝渓流に流れ込む支流に架かった丸太2本に板を打ち付けただけの簡易橋を何度も渡る。右へ左へと渓流を渡るのだが、橋の高さが2メートルを超える高さになると足がすくむ。足を踏み出すたびに橋が微妙に揺れ、真下が滝になっている簡易橋を渡る時には、緊張して丸太に打ち付けてある板の厚み1センチほども足を上げることができず、ついに四つん這いになって渡った。おまけに熊が出ると聞いていたので、携帯電話のアプリでラジオを流しておこうと考えていたが電波が届かない。仕方がない。カラオケにも行ったことがないのに、独りで童謡を大声で歌って歩いた。歌に飽きたら独り言を大声でしゃべった。
セイヨウトチノキの花の一部が羊歯の上に
そうしてようやくくたびれ果てて霧ヶ滝の流れ落ちる前に辿り着いた。時計を見たら3時間10分掛かっていた。もう昼過ぎだ。上着のポケットに入れてきた500mlの水は、すでに飲み干している。霧ヶ滝は標高766メートル、高さ64.5メートルを一気に落下するため途中で落水は飛散し霧状となるため滝壺は形成されていない。さて問題は、霧ヶ滝の奥に在るトチノキの原生林へ高さ64.5メートルを越えてどうやって辿り着くかだ。目の前に絶望的な断崖絶壁が立ち塞がる。腹は減る、喉は渇く。途方に暮れて滝の前の岩に座り込んでいると、人の話し声。30歳代後半と思える男女、夫婦らしい。2人は立派な登山の装備を身に付けている。登山靴で足下を固め、オレンジ色のシャツを着てリュックを背負い、トレッキングポールを持っている。軽く挨拶をすると男性が、雨合羽の上下に長靴を履いてカメラ一台だけ持った私の格好を見て言う。「食べ物や飲み物は持っておられるのですか」。「飲み物は、ほら」と、空になったペットボトルを見せる。「昼は降りてから食べるから」と、強がりを言う。男性が滝を見上げた。「ここまで大変でしたけど、来た甲斐がありましたね。この滝、素晴らしいですね」。言われてみて「そうだ」と思うが、滝を楽しむ余裕はなかった。
飲み物とおにぎり、ドーナツをくれた若夫婦が山道を降りて行く
2人の静かな時間を邪魔しないように「先に帰りますね。写真を撮りながらだから……」と結局、トチノキの原生林は諦めて、いま来た小径を引き返すことにした。考えてみたら、トチノキがどんな肌なのか、葉はどんな形をしているのか、どんな花が咲くのか、そんな事さえ知らずに闇雲に歩いてきた。角の尖った岩がゴロゴロしている小径に足を取られながら、ふっと急斜面の上を見上げるとやや大きな木が一本視界に入った。「んっ、あれはトチノキかな」。直感みたいなものだ。このままでは帰れないという思いが、胸の奥でわだかまっていた。あそこまで行ってみよう。滑り落ちそうな急な斜面を四つん這いになって登った。近くまで登ったが花が咲いているのかどうか、確認できない。兎も角、真っ直ぐ立つことができないのだ。すると足下の羊歯の上に小指の先ほどの小さな花が2つ乗っている。これはトチの花のようだけど……。確信は持てないが兎も角シャッターを切る。ということは、この大きな木はトチノキの筈だ。数枚シャッターを切って、元の小径まで降りて座り込んだ。もうエネルギーが出ない。途方に暮れていると、先ほどの若夫婦が追い付いてきた。「これ食べてください。これ飲んでください」と、おにぎりと大きなドーナツ、それにオレンジジュースとカフェラテを押し付けるように渡された。「いえいえ、山で食べ物や飲み物を頂く訳にはいかないよ」と押し返そうとするが、根が卑しいので、言葉とは裏腹に手が受け取っている。「せめて、名前と住所を教えてください」と頼むが「一緒に山に登ったお仲間ですから」と言って、2人は軽い足取りで降りて行った。その場で、頂いた食べ物と飲み物は全て一気に戴いた。オレンジジュースが乾き切った細胞の一つ一つに染み込むように入っていく。ようやく元気を取り戻した。
その後は、天気予報通り小雨が降り始めた。カメラをカッパの内側の仕舞い、ひたすら歩いた。ここで遭難したら地域に迷惑を掛ける。そればかりが頭の中をグルグルと巡る。以前傷めた左膝が疼き始める。ちょっとした石や木の根に足を引っ掛けて転ぶ。下手な所で転べば数十メートル下の渓流まで滑り落ちてしまう。泥だらけになって車に辿り着いたのは午後5時を過ぎていた。助かった。
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