2023年(令和5年12月)76号

発行所:株式会社 山田養蜂場  https://www.3838.com/    編集:ⓒリトルヘブン編集室

〒880-0804 宮崎県宮崎市宮田町8-7赤レンガ館2F

平養蜂場が蜜蜂を越冬させる際の拠点としている千葉県市原市の自宅近くの農道にて

市原市の自宅に入る小路に咲く椿

 青森県三戸郡五戸町を本拠地とする平養蜂場だが、本号の主な取材地は蜜蜂を越冬させるために巣箱を移動した千葉県市原市だった。およそ蜜蜂350群の巣箱を青森から移動させた後、市原市の自宅をお訪ねした際、2代目の平利一郎さんが話していた「毎年、最初に(蜂蜜を)採るのは桜。蜜が入るのは(花が)散り始めてからな」という言葉が気になっていた。だいたい桜の蜂蜜とは、そう採れるものではない。ここから2キロ圏内に桜の名所でもあるのだろうか。利一郎さんに伺うと、「あるよ」と返事。「ここから南の方にある海保墓園は桜の名所だよ」とのこと。それならばと午後3時前、海保墓園を目指して歩き始めた。

 平さんの自宅へ入る小路の両側は椿並木だ。冬の午後3時、すでに夕陽の趣を感じさせる陽光が椿の花を照らし出して輝いている。小径を下り、目の前を走る館山自動車道に沿って右に曲がると、カヤなど背の高い草が茂る舗装路が続いていた。道なりに右へ曲がる緩やかな坂道を進む。道の土手に径が刻まれているのに気付き上ると、畑が広がる台地になっていた。

 畑のほぼ中央に3、4本ある小振りの梅の木を、脚立に乗って剪定している歳のいった男性の姿が見えた。黙ってやり過ごすのは失礼かと思い、少し近づくと彼も私の存在に気付いたようで脚立を降りて近づいてきた。

畑で脚立に乗って梅の木の剪定をしていた男性

 「この近くに墓園があると聞いて探しているんですが」と、声を掛ける。「そりゃ、ここら辺じゃねえな。下に道があるだろ、それを真っ直ぐ突き当たりがうち(の家)だから、そこを左に行って、次を右に行くと大きな道に出るから、その道を左だな」と、丁寧に教えてくれる。墓園までは、かなりの距離がありそうだ。

 「ところでご主人は何をされていたんですか」と話題を振ると、彼はいきなり話し始めた。

 「誰も農業をやる人が居ねえから大変だよ。ここら辺、農業をやっている人、誰も居ねえよ。倅も京浜工業地帯が出来ただろ、そこに勤めに行って、農業はやらねえんだよ。俺は皇太后さんと同じ年の生まれだから、戦前の教育を受けてきたからね。上の者の言うことは全部正しいんだから。今の世の中は、あれ、何というの。ボタン押して調べる奴。そうそうパソコン。あれがないと駄目だね。俺なんかケイタイもないんだから。電子保険証というのも困ったね。あれ、同じ番号の人が他所の土地にも居るっていうだろ。ありゃ困るね。結局、農業やらねえで、働きに行った人の方が年取って楽してるね。年金っていうのがあるだろ。昔は国民年金というのは、払っても払わなくても良かったんだよ。そんな余裕はなかったからな」。普段から胸の内に溜まっていた不安か不満を吐き出しているという様子で彼は話し続けた。お名前は聞かなかった。写真を撮っても良いかとカメラを見せると、僅かにポーズを取ってくれた。太陽が文字通りつるべ落としで沈んでいく。先を急ぎたかった。

「最初に桜蜜が入る」と利一郎さんに聞いて訪ねた墓園の桜は枝が伐られていた

 彼に別れを告げて、教えてもらった道を歩き大きな道路に出ると、すぐ脇に石材店がある。それで墓園が近いことは分かるが石材店に人影はなく、ともかく道沿いに歩く。しばらく歩くと更に大きな石材店の前に出たが、ここにも人影はない。店の前を通り過ぎて少し歩くと、大きな石標に海保墓園の文字。そこから奥に緩やかな坂道が続き、両側が桜並木になっている。ようやく辿り着いたが、並木の桜は無残にも殆ど枝が切り落とされている。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」とは良く聞く剪定の定石だがと、不思議に思い墓園の管理事務所を訪ねた。事務所に居た男性は申し訳なさそうに説明してくれた。「昨冬に切りました。枯れ枝が道路に落ちるようになったためなんです。来春の花は難しいでしょうね」。何と言うこと。平養蜂場の来春の桜蜜は危機に瀕しているではないか。もっと上の墓園には桜があるのかも知れないと坂道を上ってみたが、数本の桜は発見しただけで蜜が採れるほどの本数ではない。

 墓園の桜は諦めて下の大きな道路を戻り始めたところで、ジョギング中の男性に出会った。「おっ、良いカメラ。何を撮っているんですか」と声を掛けてきた。桜の木の経緯を話すと、「あそこは山から水が出るんですよ。桜は水に弱いんで、木が弱ってしまって枝が枯れちゃったんですよ。並木の始まりは20年くらい前になるかな。染井吉野は樹齢60年というから、あそこは大きな木を移植した並木だから、そろそろ木の寿命が来ているのかも知れませんね」と、丁寧な解説をしてくれた。「それじゃ」と言うと、再び軽快なジョギングで走り去って行った。もうすっかり日暮れだ。先ほどまで午後の日射しに輝いていた農道脇の茂った草たちも闇の中に消えようとしている。

「桜がある筈」と聞いて探し、自動車道の下を潜ったところで見付けた池の夕暮れ

 携帯電話が鳴った。利一郎さんからだ。「大丈夫ですか。道に迷ったのではないかと心配になって電話してみました」。申し訳なかった。「もうすぐに戻りますから」と伝えてから、先ほどのジョギングの男性が「館山自動車道の下を潜って反対側に行くと池があって、その周りに何本か桜がある筈」と教えてくれたのを思い出した。小走りで自動車道の下を潜ると、反対側は複雑な地形で、舗装されていない小径が闇の中にぼんやり見えている。何とか池を探そうと彷徨(うろつ)き、池を発見した時にはほとんど日が暮れていた。僅かに残る空の明るさを水面が映し出している。桜は見つけ出せないままだった。来春の桜蜜が予定通り採れることを願うばかりだ。

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