その当時は糖度なんて関係ないんだ
自らが運転して千葉県の拠点に向かう利一郎さん
千葉県へ出発する前の慌ただしい時間に、2代目の利一郎さんが養蜂を始めた頃の話を聞かせてもらった。
「現在はもっぱら市原市が拠点になっているんですけどね。以前は房総半島で越冬地を探していたもんだから、館山市に越冬地を見付けてね。そこの農家さんの一角を間借りして、中学を卒業したての頃、一人でそこへ行ったかな。親父が農業をやりながら蜂をやっていたから……。お袋の兄貴が軍隊で蜜蜂を飼っているのを見てきて養蜂を始めたもんで、親父(万吉さん)は義弟になるんで手伝いに行ったらしいんだよ。戦後の甘い物がない時代だったので良い商売になったらしいよ。俺は5人兄弟の長男に生まれたから家を継ぐことが決められていたようなもんだから……。集団就職の時代だったから、中学を卒業した3分の1は上の学校に進まなかったね。学校は昭和34年3月で終わり。でも、夜間高校に行ったの。福島県の保原町に菜種(なたね・菜の花)のある所があって、そこの菜種蜜の採蜜が終わってから、ここに帰って来てぼつぼつ夜間高校に行ったの。その頃は一面が真っ黄色、黒い畑を見付けるのが大変なくらいだったね。その当時は100群くらいだったから、蜂場はそれなりに蜂屋同士で調整してやっていたんだよ。福島県で菜種蜜採った後で十和田湖のトチ蜜採れば、うちはそれで終わりだったね」
出発するため葉子さんが荷物を玄関から運び出す
「うちの親父の頃は副業だったから、車がなかったもん。それが19歳の時にトヨエースの中古を買ったの、12万円だった。嬉しかったね。車に乗れるんだもん。財布は親父だったけど、財源は蜂蜜だったか米だったか。うちのお袋が言っていたね。終戦当時は埼玉県のお菓子屋さんが自転車に乗って来て、蜂蜜採るのを待っていたんだって。だから、その当時は糖度なんて関係ないんだ。採れ過ぎて蜂蜜を入れる缶がなくて、水飴を入れる缶を買ってきて缶の角にある小さな空気穴をハンダで塞いで(蜂蜜を)入れたんだから……、ヤクルトの一斗缶もあったね。南部鉄道という五戸駅から八戸駅までの支線があったんだよ。当時は4日間くらいかかって館山まで貨車で巣箱を運んだね。昭和43(1968)年5月16日に発生した十勝沖地震で鉄道が大きな被害に遭って廃線になってからはトラックだけどね」
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