片山津温泉総湯の傍に寒桜が咲く
片山津温泉総湯は建築家・谷口吉生の設計
午前6時過ぎ、片山津温泉総湯の駐車場はほぼ満車の状態だった。しばらくすると、浴衣姿に下駄を履いた若い女性3人組がタオルを手に総湯の出口から姿を見せた。近くの温泉旅館かホテルの泊まり客が気分転換に総湯の朝湯を浴びに来ていたようだ。明け方に降った雪が植え込みに残る冷たい朝の空気の中、賑やかな会話の余韻を残して通り過ぎる女性たちの頬はほのかな赤味を帯び、朝湯を楽しんだ様子が伝ってくる。
片山津温泉総湯の建物は、モダニズム建築の作り手として知られる建築家・谷口吉生(たにぐち よしお)の設計で温泉のイメージからはかけ離れた瀟洒な総ガラス張りだ。観光客ばかりでなく加賀市民にも親しまれている共同浴場であることは満車になっている駐車場を見れば分かる。当然、私も490円の入浴料を払って「潟の湯」に浸かることにした。総湯は「潟の湯」「森の湯」と2つの浴場があり、日替わりで男女入れ替えになっている。前日の別れ際、高井孝徳さんに「明朝は、総湯に行くつもり」と言うと、「潟の湯だったら良いですね。僕が行くといつも森の湯なんですけど、潟の湯の方が眺めが良いって皆が言いますよ」と、教えて貰っていた。一回目で「潟の湯」とは運が良かった。脱衣場では地元の顔馴染みらしい年配の男たちが下着姿で火照った体を冷ましながら世間話を交わしている。少々熱めの湯が、深い湯船と浅い湯船に満々と湛えられ縁から溢れ出している。湯船に手足を伸ばし肩まで浸っていると、ガラス越しで目の前に広がる柴山潟の湖面と湯船の水面が一体となった感覚になり、冷え切っていた体が解きほぐされ身も心も解放されていくようだった。
柴山潟の湖畔路の傍らにオランダミミナグサ
湯上がりに防寒着を着込んで柴山潟の水辺を歩いてみようと、総湯の建物を柴山潟の側に出てみると、柴山潟西側の縁に2021年の夏に完成した長さ約1200メートルでウッドデッキ造りの湖畔路は通行止めになっていた。理由の表示はなかったが、今年(2024年)元日の能登半島地震の影響で地盤の緩い潟の淵は液状化現象が起こったのか、総湯裏の敷石が少しだけめくれた状態になっている。湖畔路を歩くのは諦めて温泉宿街の一般道を歩きながら柴山潟の淵に近づくことにした。所々に青空も見えるが、空は雲が覆っている。総湯の建物をぐるりと一周して一般道へ出ようとしたところで、2本の小さな寒桜が満開を過ぎた薄桃色の花を辛うじて付けているのを発見した。昨日のみぞれや今朝の雪にもめげずに咲いているのだ。
温泉宿街の一般道を歩いたが、宿と宿の間にある路地も宿の敷地になっていて、潟は見えるが近づくことはできない。しばらく一般道を歩くうちに、湯の元公園源泉地の広場にたどり着いた。堤防に近づく私の気配に驚いたのか、突然大きな羽音がして一羽の鴨が潟の中央へ向かって低空飛行して行った。この公園から弁財天と竜神を祀る浮御堂へ浮桟橋を渡って行くことができる筈なのだが、ここも通行止めになっている。ふっと足下を見ると、湖畔路脇の芝生の中にオオイヌノフグリが青紫色の小さな花を咲かせていて、朝方に降った雪の名残の水滴を載せていた。跪(ひざまず)いて小さな花を撮影していると急に周りが明るくなり、垣根の隙間から朝日が射し込み、まるでスポットライトを浴びせるようにオランダミミナグサを照らし出している。その凜とした健気な美しさに夢中でシャッターを押す。
湖畔路が通行止めになっていたため湖畔の自然を楽しむ散策は出来なかったが、湖畔路の終点近くにある中谷宇吉郎 雪の科学館の周辺を歩いて、通行止めの現実を見た。雪の科学館の建物の損傷は確認出来なかったが、建物周辺の歩道は地盤沈下なのか液状化現象なのか敷石が大きくめくれ上がり地震の恐ろしさを目の前に晒していた。
柴山潟の湖畔に建つ「雪の科学館」周辺は能登半島地震の影響で地盤がズレていた
柴山潟は「加賀三湖」と呼ばれる潟の一つだ。加賀三湖は約1万年前の縄文時代には日本海の中にあったが、その後、海退が進むと共に海岸線の砂州が発達して外海と遮断され「木場潟」と「今江潟」それに「柴山潟」が形成されたと資料(一社・農業農村整備情報総合センター)にある。その後、江戸時代の初期から耕地拡大のため何度も埋め立て計画が立てられ着工されたが実現せず、1952(昭和27)年から始まった「国営加賀湖干拓建設事業」によって、柴山潟は全面積の約60%に当たる北東側が干拓され現在の姿になったとある。
その干拓事業の際、柴山潟の全面干拓に反対し、湖面の景観を残すよう陳情したのが片山津温泉の事業者たちだった。その成果として現在の柴山潟の姿が残った意義は大きい。
片山津温泉の始まりは1653(承応2)年に当時の藩主が鷹狩りに訪れた際、水面に水鳥が群れていたことから湖底の温泉源を発見したと伝えられている。但し、温泉源が湖底にあるため、その後も長く温泉を利用することは出来なかったが、1876(明治9)年に松材3万本を使って一町歩の面積が埋め立てられ、出来た人工島に温泉旅館が初めて開業したと片山津温泉の案内が伝えている。
そんな地域の歴史を紐解きながら小さな自然を愛でる楽しみは細やかだが旅の醍醐味でもある。
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