生態系が崩れてしまった
自宅庭のテント下で干場さんが淹れたハーブティーを戴く。右は妻の恵美子さん
「1993年に日本でネオニコチノイドが使われ始めたんです。その頃から野原で羽音が聞こえなくなりましたね。それに伴って川から魚がいなくなって……、つまり生態系が崩れてしまったんです。餌がなくなったんですよね。生物の多様性が失われたんですね」
自宅の居間で干場さんの自家焙煎コーヒーを戴いていると、いきなりネオニコチノイド系農薬の話だ。干場さんにとって、よほど許しがたい農薬使用の現実なのだろう。「ヨーロッパでは2018年から使用が全面禁止されているのに、日本だけですよ、緩やかな規制で使用禁止にもなっていないのは。ネオニコチノイドは日本企業が開発製造しているから、国は禁止したくないのでしょうね」。
自宅前の野原に車を停めた時、「野原で見る昆虫が少なくなった」と呟いていた干場さんの気持ちが収まらず、居間のテーブルに着いてからも話の導火線になったようだ。
ここで干場英弘さんを紹介しておかなければならない。干場さんは蜜蜂研究で名高い玉川大学農学部の卒業生であり元教授だった。論文「ハチ目昆虫の細胞遺伝学」で博士号を取得し、養蜂を志す者ならば誰でも知っている養蜂指南書『蜜量倍増 ミツバチの飼い方・これでつくれる額面蜂児』(農文協)の著者である。
アワフキムシ(カメムシ目)の幼虫がつくる泡状の巣
「母校の玉川大学で教授を務めたのは5年間だけなんです。昆虫を学んだのも玉川大学でしたけど、私の人生のほとんどは私立高校で生物教師をしながら蜜蜂を研究していました。北海道の現・留萌(るもい)市の山ん中で生まれ育ったんです。父親が日本人造石油株式会社(前身は北海道人造石油株式会社)という国策会社に勤めていて、官舎のすぐ裏の山が遊び場でした。近くを流れる小川で鮒の鱗がピカピカ光っていた光景は今も鮮明に覚えていますよ。そんな子どもの頃の体験があったので生物全般に興味はあったんだけど、玉川大学に入学してみると昆虫しか考えられなかったです。私は運が良かったんです。日本に初めて養蜂が入ったのは明治10(1877)年、新宿御苑に入ったんです。日本で最初の西洋蜜蜂による養蜂が始まるんですけど、その後何年かが過ぎ、新宿御苑で天皇陛下の野菜を作っていた方が養蜂を学び、東京の世田谷に「むさし蜂園」という養蜂場を開くことになるんです。その社長が若い人に養蜂技術を教えたいということで、たまたま「むさし蜂園」の近くに住んでいた私の叔母が声を掛けてくれたんです。私が玉川大学2年生の時でした。玉川大学の岡田教授が日本で一番の技術がある養蜂家と言っていましたね。その上『養蜂大鑑』という名著を書かれた野々垣淳一養蜂園の3代目が玉川大学の研究室におられて『養蜂を手伝ってくれ、即戦力ができる』と蜜蜂の研究を仕込まれたんです。私としては、そのまま昆虫学研究室に残って蜜蜂の研究を続けられると思っていましたが、色々と経緯がありまして、研究室には残れず生物教師として高校に勤務することになったんです。しかし、高校に行ったら研究器材は何もない。教授から追い出されるような形でしたから悔しかったですね。悔しさをバネに研究器材は自分で作って染色体を研究して博士論文を書きました。そうしたら、その論文が玉川大学の論文審査に合格し、博士号を取得することができたんです。頑張った自分へのご褒美のような気持ちでしたね。論文を書く時はね、5日間布団に入りませんでしたよ。高校の仕事をしながらですからね。論文「ハチ目昆虫の細胞遺伝学」で博士号を取得したことで2007年に玉川大学から声を掛けてもらって、いきなり教授として5年間だけ勤めたということなんです」
洗濯物を干してある下にムラサキツユクサの花が咲く
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