2024年(令和6年11月) 81号

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上田市真田町傍陽の集落を左手に望む。右の山肌が旧信陽鉱山

慶助さんが訪ねたりんご園はシナノスイートの収穫が間近だ

 「傍陽(そえひ)が、はけた養蜂場の原点ですね」の言葉が気になって、羽毛田慶助さんに傍陽への案内を請うた。上田市諏訪形の事務所からは車で30分ほど、現在ではそれほど山間部だとは思えないが、82歳の慶助さんが幼少年期の交通事情を考えると、上田市街地が現在の東京とも思える距離感があったのかも知れない。

 「山ん中にいて赤貧の時代を子どもの頃過ごしたことが、兄弟家族が仲良くする根底にあるんじゃないかね。進駐軍の払い下げの服を着ていたのを覚えていますね。うちは夕食は必ず団子汁(すいとん)だったんですよ。よその家に行ったら、ご飯が出てきてびっくりしたことがあったね。うちは米がねえんだから。私が家を造ったのが27歳。桃を栽培して貯めた30万円があったけど金融公庫で借りてもまだ足りなかったら、姉夫婦が80万円出してくれた。うちは貧乏だったから、皆で助け合ったんですよ」

慶助さんが洗馬川の支流を歩く

 次に慶助さんが案内してくれたのは、樹齢約500年と推定されるアカマツと幹下に祀られている弾正塚宝篋印塔(だんじょうづかほうきょういんとう)だ。応永十年十月十八日の刻銘がある。慶助さんは敢えて説明はしなかったが、傍陽が620年前(1403年)にはすでに集落を形成していたことを伝えたかったのかも知れない。慶助さんの郷土愛なのだ。

 慶助さんの軽トラは次第に山間部へ入り、緩やかな斜面の開けた土地に出た。崩れかけた小さな小屋が建っている。「ここなんですよ」と慶助さん。「ここで桃を作っていたんです。もう荒れてしまって……」と残念そうだ。「ここから見えるずっと上まで畑だったんですけどね」と、軽トラから降りようともしない。ふっと思い出したように作業小屋の近くで車を停めて、傍の茂みに踏み込んだ。足下を見ると、横に寝かせた原木にキノコが生えている。クリタケ、シンシュウシメジ、ナメコをそれぞれ少しずつだが栽培しているのだ。慶助さんが急に活き活きとシンシュウシメジを両手に盛るように収穫している。突然、山育ちの血が騒いだようだ。緩やかな斜面の下の畑にだけ獣除けの柵がしてあり3列ほど葉物野菜が作ってあった。慶助さんが生まれ育った家をリフォームして一番上の姉が暮らしているのだ。

 慶助さんはその後、洗馬川に注ぐ沢の中を歩き、父親が亡くなった信陽鉱山跡と傍陽集落を見渡せる高台に私を案内し、ヤマブドウの古木がある畑ではブドウを口に入れ「どうぞ、食べてください」と自分の畑のように私にも勧めてくれる。最後に訪ねたのは実家の隣でリンゴ農家を経営している半田竹一さん(80)の家だ。子どもの頃から家族同様の付き合いをしている半田さんにリンゴを注文している様子だ。

 傍陽での慶助さんの様子を見ていて「誰に遠慮も要らない故郷での開放感」を感じた。そんな故郷が慶助さんに在る「幸せ」を間近に見せてもらった。しかし、集落を見ると確かに空き家が目立つ。畑で仕事をしている人たちの多くは80歳を超えている。慶助さんの言う「あと10年も経てば10軒もなくなるんじゃないかな」の言葉が切実だ。

 それともう一つ「生活ってなんですかね」と慶助さんが呟いた言葉が、私の胸に引っ掛かっている。私たちが日々努力している先には、必ず「幸せ」がなければならない。

慶助さんが育った実家は現在、姉がリフォームして暮らしている

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