琉球石灰岩を敷き詰めた石畳とあいかた積みの塀が続く首里金城町石畳道の一角
内金城獄境内の大アカギは国指定の天然記念物
80年前、太平洋戦争の末期、日本軍とアメリカ軍が3か月に及び繰り広げた沖縄での地上戦。多くの住民も巻き込まれ、県民の4分の1が犠牲になったと言われる。その始まりは1944年の「10・10空襲」と呼ばれる米軍機の集中攻撃。1400機による無差別爆撃によって、那覇市街地の90%が火の海となり5万人が焼け出された。しかし、この日、新垣養蜂園のある首里城周辺は攻撃されず、翌年の1945年6月になって、首里城の地下壕に日本軍の司令部が設置されていたために攻撃目標となり、680万発の砲撃を受けて首里地域全体が灰塵と化した、と資料にある。
金城町は首里城の城下町だ。そのため集中砲撃で相当の被害を受けた筈だ。新垣養蜂園初代の盛弘(もりひろ)さんが、蜜蜂と出会う前のことだが「この土地には2度と帰って来ない」と決意して那覇市街地外れへ引っ越したのは1951年。12年後、ローヤルゼリーで経済的な余裕ができた盛弘さんは、蜜蜂を引き連れて家族と共に自らの故郷金城町、現在の新垣養蜂園の土地に戻ってきた。
新垣養蜂園の正面に「天然記念物首里金城の大アカギ」と彫り込まれた大きな石柱が建っている。その左に細くて急な下り坂がある。坂道というか、石段というべきか、つまり本来の姿は琉球石灰岩で造られた石段なのだが、石段が崩れて段が曖昧になっているのだ。手入れがされている痕跡はない。足下に注意を払い2、3分ほどゆっくり下りていくと、はっきり段差のある階段が現れ、細い手すりもあった。首里公民館事業の市民講座で新垣伝さんが受講者を案内した細道だ。
改めて周辺地図を見てみると、首里城公園守礼門から南へ下る首里金城町石畳が続いている。かなりの急坂ではあるが、恐らくこの石畳が琉球王国時代のメインロードで、首里城と城下町で暮らす人びとを結んでいた。私が歩いている小径は、その脇道で日常使いの小径だったのではないか。
戦禍を逃れ拝所として守られ続けてきた内金城獄への入口
さて、階段を下りきると、右側に向けてデッキ式の遊歩道が造ってある。国指定天然記念物「首里金城の大アカギ」へ続く遊歩道だ。見学者が地面を踏み締めて大アカギに悪影響を与えないための観光的配慮だ。また、別の資料によるとハブ避けの意味もありそうだ。わずか20mほどだが、宙に浮いたデッキ道を進んだ突き当たりに推定樹齢200年余の大アカギが数本。周りにはクワズイモの大きな葉が揺れている。ここは内金城獄境内(ウチカナグスクウタキけいだい)になり、小径の反対側には拝所の入口がある。那覇市文化財課の資料によると「アカギは沖縄県内では普通に見られる樹木だが、このような大木群が住宅地に見られるのは内金城獄境内のみである。第二次世界大戦前までは、首里城周辺にもこのようなアカギの大木が多く成育していたが、そのほとんどが戦争で焼かれてしまい、現在では数本みられるのみである」とあった。
私が坂道で実感したように、深い崖下に育った大アカギ群だったことで、アメリカ軍の攻撃から逃れられたのだろう。それは、内金城獄境内にも言えることで、この拝所が記録に登場するのは1713年に記された「琉球国由来記」だが、拝所は文字として記録されるずっと以前から琉球国民の魂の依代(よりしろ)として存在していた筈で、その時間的、空間的継続性を保っていることに気付くと、一層の厳かさが伝わってくる。
内金城獄の境内を出て、小径を住宅地の方へ向かうと、右側には赤い実を付けたコーヒーの木があり、左側にはオオバギの茂みもあった。オオバギは瓦礫となった市街地にいち早く現れた先駆植物で、食べ物を包むなどに使われたそうだ。一説には、貴重な紙の代わりに用を足した後で尻を拭く用途にも使われたらしいが、真偽の程は分からない。
ここから先は琉球石灰岩を敷き詰めた石畳とあいかた積みの塀が続く首里金城町石畳道の区域だ。県指定文化財であり日本の道100選の一つにも選ばれている地域なので観光客も多く訪れるが、一歩奥まった内金城獄境内まで訪れる客は少ない。
初代の盛弘さんが故郷である金城町に戻り家を建て、養蜂を続けた本当の理由を知る由もない。しかし、戦禍から免れ、鬱蒼とした内金城獄境内に佇んでいると、推定樹齢200年余の大アカギ群の存在や拝所の神聖さが保たれていることが、故郷に戻る動機の一つだったのではと思えてきた。
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